6: :2007/11/25(日) 10:22:41.35 ID:
母は難産家でした。
今となっては、それが体質などに由来するのか、はたまた全くの偶然なのかはわかりませんが、
私の前に、2人ほどの子を流した経験があるそうです。
兄妹は妹がいますが、無事に生まれた我々もまた、遅産だったり早産だったりで、両親をハラハラさせたそうです。
んで?
保育園児だった私がある時「今日ってドラえもんやる日?」と聞くと、母は眼をつり上げて
「まだそんなこともわからないのか。曜日くらいおぼえろ」と、私のことを叱りました。
その後、おぼえるまで何時間も、「月火水木金土日…」と言わされ続けました。食事はもらえませんでした。
幼稚園のうちに教え込まれました。できなければ叱られましたし、やはり食事を抜かれました。
時計と自転車には何週間もかかった記憶があり、そのころは休日がイヤでした。
当時の私は電車が大好きで、父によく駅につれていってもらっていました。
しかし母はそれが気に入らないようで、帰ってきた父によくかみついていました。
そのうち私は、父が「電車をみにいこうか?」と言ってくれても、首を振るようになりました。
夫婦喧嘩がイヤだったのかどうか、今ではよくわかりません。
ただ当時、もし私に「お父さんとお母さんどっちが好き?」と聞いたなら、
はっきり「お父さん」と答えたであろうことは、疑う余地のないことでした。
時計が読め、時間の計算もでき、比較的画数の多い名前を漢字で書くことができ、一人でおつかいもでき、
音読でつまることもありませんでした。
特に時計については、ひたすら褒めちぎられた記憶があります。
でも、どんなに誉められても嬉しくはありませんでした。
ちなみに最後の音読については、ピーターラビットの絵本を何度も読み返していたから、文章に慣れていたのだと思います。
母が私に買い与えてくれた数少ないものの一つでした。
お別れ会を開くと、家に入れないくらいの友達が押し掛けて、子供心に嬉しく思ったものです。
そのとき、一番よく遊んだ友達がウルトラマンのソフビ人形(確かツインテールでした)と亡いとガンダムのプラモをくれて、
これはきっと一生の宝物になるな、と思いました。
日本に早く縁切りできる法律復活しないかな…。
聞こうじゃないか。
私の場合、虐待というものではなかったと思います。
ただ母は私に多大な期待を寄せており、そして不甲斐ないことに、私はそれにこたえられる人間ではなかったのです。
東京の学校に転校した私は、すぐに『いじり』の対象になりました。
大阪弁を「いなかもん言葉」と言われたり、「タコヤキ! タコヤキ!」とはやしたてられたり、
また東京では珍しい名字だったため、それをもじった屈辱的なアダ名をつけられたりもしました。
俺も聞こう・・・でもその前に年齢と性別を教えてもらおうか
父はもとより、母も、看護士(当時は看護婦という呼び方が世間では一般的でした)だったので忙しく、
平日は一緒にいる時間も短かったのです。
しかし、クラスでの『いじり』がだんだんとエスカレートし、私のうわばきがどこかに隠されるという事件が起こりました。
担任の先生が、さすがに見かねて、学級会を開いてくれました。
その日のことは今でもはっきりおぼえています。母の帰りがとても早かったのです。
先生が、母に連絡したのでした。学校での私の状況が、母の知るところとなりました。
なぜ話さなかったのか。なぜやりかえさないのか。母の詰問にこたえることは、当時の私にはできませんでした。
私は父の帰りを待ちましたが、その日は父はかえってきませんでした。
母がもの凄い勢いでわめいているのに、妹は開け放された隣の部屋で、スヤスヤ寝入っていました。
妹のことが本気で憎たらしく思えたのは、このときがはじめてでした。
学校のことを知った母のショックは大きかったらしく、翌日からは母の活動がはじまりました。
休みを作ったのかなんなのか、なぜか平日昼間から家にいて、下校途中の私のクラスメートをつかまえ、
彼らを叱りつけました。クラスメートの一人から、泣きながら「ごめんね」の電話がかかってきたこともありました。
その電話の後ろでは、私の母と似たような声で「ちゃんと言いなさい」などと、その子を叱りつける言葉が聞こえました。
私がクラス内で孤立するのに、時間はかかりませんでした。
その後もうわばきは何度もなくなりました。特にプールの授業になると、うわばきを外に置きっぱなしにするので、
2回に1回はなくなりました。私はその都度、次の授業をサボタージュして、うわばきを探しました。
焼却炉を使われなかったのはラッキーでしたが、事情を知らない先生にはよく叱られました。
ただ、先生も「こいつの親に連絡するとヤバい」と思ったのか、そのことについては報告を控えてくれました。
母が、流れた2人の子の話をするようになったのは、このくらいの時期からだったと思います。
おまえは生まれてなかったね」と、ことある毎に私に言い聞かせました。
母の頭の中では、2人の兄だか姉だかが生きていて、私はいなくてもいいように思えて、怖かったです。
そして恐らく、妹は、母の頭の真ん中に居続けるでしょう。少なくとも当時の私はそう思っていました。
そうです。私はこのとき既に、妹に対してかなりのひがみを抱いていました。
そして驚くべきことに、それを「母にバレないように」実行するという配慮さえも心得ていました。
自然と兄妹仲は悪くなっていきました。私は内心、いつ母に告げ口されるかとビクビクしながら、
妹をストレスのはけ口にしていました。ある時は、マンガで「ムギ茶だと偽ってめんつゆを飲ませる」
というネタを眼にし、それを実行したりもしました。マンガでは笑い話ですんだのに、妹は泣きました。
変に頭良さそうで冷静だから怖い。
意外にも、妹イビリで母に叱られた記憶はありませんでした。妹は、母に一切のことを話さなかったのです。
当時はなんとも思っていませんでしたが、妹はそういう、人間としての大きさを備えた人間なのです。愛される人間です。
内外の関係は、小学校を卒業するまでずっとそんな感じで続きました。
学校では、先生にバレない程度にいじられ、家では、母にバレない程度にイビる。
卑屈な自分しか思い出せない、暗黒期でした。
なんか胸が締め付けられるかんじ・・・
ことばが見つからない・・・
私の通っていた中学校は、不良達が跋扈していた最後の世代(1年はおとなしいが、2ー3年がハシャいでいた)で、
1年の耳には「何組の誰々がリンチされた」「○○先輩はゾクの知り合いいるらしい」といった、怖い噂がいくつも届きました。
そして、リンチの噂に関しては事実でした。
私自身がリンチされましたから。
まぁ、本筋に関係ないならいいや。
父は出張・残業でほとんど家にいませんでした。
別にエリートとかではない、ごく一般的な、24時間戦う企業戦士です。
私は既にそのときオタクとしての道を歩みはじめており、パソコン部に通っていました。
クムドールの剣を同期の中では最速でクリアーしたことがきっかけで、新しい友達もできました。
そんな部活動中、大勢の先輩たちがいきなり部室に乱入してきて、後ろの方でギャアギャア騒ぎ始めました。
注意された先輩は、無言で部長を殴り飛ばしました。
それまで「何アレ…?」とヒソヒソ話していた部員たちも、一斉に静まり返りました。
部長は「1人決定」などと言われて、どこかに連れ去られていきました。
先輩たちは部室内を物色し、部員一人一人にガンつけながら、目に付いた生徒にはいちゃもんつけていました。
どんな学校だよw
あの年度に関しては最悪の学校でした。実はこのときも、顧問の先生はいたのです。
部長が殴られる直前、どこかに姿を消していましたが(今にして思えば、顧問が消えたので、
先輩たちは暴力を実行に移したのでしょう)
私もガンつけられました。が、スルーされました。
ホッとしたのもつかの間、先輩達の中から「お、○○じゃん」と私の昔のアダ名を呼ぶ人がいました。
同じ学校の上級生だった人で、私とはほとんど面識のない相手でした。
ただ、母の苛烈な活動はPTA内でも有名だったらしいので、恐らくその辺から、顔とアダ名が広まったのでしょう。
先輩達が、私を指さしながら何かを話しています。
程なくして、私のことを知っていた例の先輩が笑いながら「決定ね」と歩み寄ってきました。
「おい、タイマンしようぜ」と言われ、わけもわからず辞意を表明すると、胸ぐらつかまれて、
ディスプレイに頭をガンッ! とやられました。
私は抵抗する気力をなくし、あれよあれよという間に、トイレにつれていかれました。
それも女子トイレ。その階には、女子や、女教師の人が活動する部がなかったため、
乱入者の心配をしなくてよかったからだと、推察されます。
トイレの隅で数人の先輩に囲まれた私は、「土下座しろ」という命令に必死で抵抗しました。
最初はすごむだけだったのが、足を踏むなど搦め手からの暴力がはじまり、
最終的にはハンカチを口の中に押し込まれ、ボディーを乱打されました。
一通り殴られ終えた私が、ピンク色の床の上でむせいでいると、生徒手帳をとられ、
名前と住所をおぼえられ、「あーあの辺か」などと談笑され、生徒手帳にこっそり書いてあった
パラパラマンガを嘲笑され、そして最後に「このこと話したらおまえの家いくから」と脅されました。
お前の悲惨な学生生活は簡潔でいいから、母親の話を早く書くんだ。
そんなことをされたら、まず間違いなく、母に知られるからです。
私は、土下座しました。
その後解放され、部室に戻され、家に帰りました。
それでリンチ事件は終わったのですが、なぜか2ヶ月くらいして、その事件が発覚しました。
もちろん、その情報は母の耳にも入ったわけです。
そこからイモヅル式に悪事が暴かれた感じだったようです。
リンチの事実を知った母は、当時の様子を執拗に詰問してきました。
特に土下座について気になったらしく、「土下座したのか? 土下座したのか?」と、
しつこく問いただされました。
その後「なんで最後まで我慢せざったんよ」と、普段まったく使わなくなっていた愛媛弁で、私を責めだしました。
土下座がいかに尊厳のない行為であるか、そして暴力に屈することがいかに愚かであるかを、
罪人に聞かせるように言い聞かせました。
暴力親父であったことを明かしました。
祖父が無免許で漁師をしていたこと、摘発されて漁に出られなくなると、酒を飲んで祖母や母に暴力を振るったこと。
そして、その暴力にあらがえなかった祖母の情けなさなどを語られ、最後に「おまえはうちの母さんと一緒。情けない人種」
と断じられ、腐ったものを見るような眼で睨まれました。
その日も食事は与えられませんでしたが、もう慣れていたので、母が寝た後に、のりでご飯を食べました。
私はたまに、同じ夢を見ることがありました。
私が大けがしたか、大病をわずらったかで、病院に運ばれる夢です。
運び込まれた私の動くベッド(ストレッチャーと言うそうですね)を受け入れるのが、母でした。
夢の中の母は、別にやさしくもなく、特に声をかけるでもなく、さっさと私を病室に運び入れ、
薬を飲ませたり、包帯のようなものを巻いたりしてくれるだけでした。
この夢を、リンチ事件発覚後、まったく見なくなりました。
物が凄くすくないのです。こっそりゴミ捨て場から持ってきたエロ本なんかがなくなったなら、
なんともなかったのですが、ピーターラビットの絵本や電車の図鑑、
さらには宝物のツインテールとナイトガンダムを含む、「大事なもの」と思っていたものがきれいになくなっていました。
捨てたのは母でした。
ですが、怒っていたのは母も同じでした。
私が「なんでそんなことを」と聞くと、母はただ「うるさい。うるさい」と、とりつくシマもありませんでした。
押し問答が続き、私の堪忍袋はついに破裂したのです。
母は最初、ハトが豆鉄砲くらったような顔で立ちすくんでいました。
先に声をあげたのは、驚いて起きてきた妹でした。
「お兄ちゃんやめて! やめて! なんでそんなに怒り狂ってるのさ! もうやだぁ!」
私は、物を投げるのをやめました。実は途中から、心はとても冷静でした。
止めてもらえるのを待っていたんだと気づいて、自分がいやになったことを、今でも覚えています。
どんなに冷たい母でも我に返るときはあるんだ。
それだけは心のすみに、置いてやっといてな。
後悔しない人間もいるからそこは、ねぇ・・・
もの凄い力でした。私を引っ張る間、母はずっと、よく聞き取れないわめき声をあげていました。
唯一聞き取れたのが「なんで生まれてきたのがアンタなんよ!」という言葉でした。
なぜか最初に向かったのは中学校でした。
夜の学校に忍び込み、グラウンドに置いてある、練習用の小さいサッカーゴールの中に座り込みました。
母の「なんで生まれてきたのがアンタなんよ!」の一言や、何度も語られた、2つの流産について考えました。
なんとなく、母の気持ちについて、想像できる気がしました。
詳しく聞いたわけではありませんが、「時期的にお前は生まれていなかった」という言葉から想像すると、
両親は流産後、すぐに次の子を作ろうとしていたのでしょう。
そして遅産の末ようやく授かった長男が、私だったのです。
けれども私は、それ以上そのことについて考えるのをやめて、夜の街に戻ったと思います。
その夜のことは、はっきりと思い出せる部分と、そうでない部分があります。
駅、図書館、公園、遊んだことのあるクラスメートの家の前、学童館などなど。
警察のご厄介になったことも、おぼえています。
しかし、警察に保護されたあと、どうやって家に戻ったか、母とどうやって再会したか、おぼえていません。
その後は、もともと家にいることの少なかった父はもとより、母とも、妹とも、あまり口をきかない生活がはじまりました。
私は適度に中二病でスイーツな中学生活を過ごし、アニメを見、ライトノベルを読みあさりました。
良い思い出の少なかった学校生活に花がさいたのが、このころでした。
オタク仲間ができ、部活動も充実していました。夜遅くまでゲーセンに入り浸り、家には寝に帰るだけの生活が続きました。
流産と教育と人格形成の失敗も子供に押し付けて
育成シミュレーションゲームでもやったほうがお互いのためだよな
中学校の三者面談で、先生と母にはじめてその意向を明かしました。
母はなにも言わず、先生も苦笑しながら「じゃあそのためにはどうすればいいか、考えてね」と諭されました。
母は、もう本当になにもいいませんでした。専門学校にいきたいと伝えても、「金はださんからな」と切り捨てるだけでした。
父とも相談し、結局、工業高校への推薦入学を決めましたが、そのときも、母は別に何もいいませんでした。
しかしクラス編成で、後に退学することになる不良と同じクラスになったことで、また事件が起こりました。
クラスのちょっと悪い方面の人たちをまとめた不良は、いじれそうな人間にちょっかいを出して遊ぶのが日課でした。
自己紹介の時に大阪出身であることを明かした私は、常にその舞台に立たされ続けました。
もはやパターンです。それが担任の耳に入り、そして、家族の知るところとなったのです。
オレも工業だけどイジメなかったぞ・・・・電気科だからか
イジメというほど陰湿な行為ではありませんでした。大声で「おい大阪(あだ名)!なんかギャグやれ!」と
たきつけられるとか。後に問題となるのは、不良たちの私への行為がではなく、彼らが不良であったことなのです。
先に学校からの報告を受けたのは父でした。母はちょうどそのころ職務の転換期(看護士から、老人介護の方面へ)で、
一時の父以上に家にいなかったので。
父は、母のような苛烈な人柄ではなかったので、まずその日のうちに「高校でやってけそうか」と聞いてくれました。
私は大丈夫である旨伝え、その場はそれで収まりました。
多分、このとき家にいたのが母だったとしても、似たような感じになったと思います。彼女は完全に私への興味を捨てていたので。
むしろ、先に父と話をしてしまったことが、後々の大きな問題の引き金となったように思えます。
適当なこといってすまんかった。
そんぐらいならあったわ。チン毛といわれてるやつらとか・・・
リンチとかではなく、対等の条件で、さらにはささいなきっかけで偶発的に起こった「ケンカ」です。
その人への誤解がないように断っておくと、不良リーダーが退学した後、その相手とは仲良しになっています。
ケンカの事実は、すぐに教師の耳に入りました。
ケンカ両成敗という方針の学校だったため、私と相手は二人とも生活指導措置がとられ、
数日ほどは授業に参加できなくなりました。
こうなると、担任からではなく、もはや学校からの報告として、その事実が両親に伝えられました。
実際にそうなると一方的に相手から絡まれて喧嘩する羽目になった方は納得するのが難しいんだよね
父は、以前学校から連絡があったことを、母に話しておらず、それが母の逆鱗に触れたのでした。
その後も散発的に夫婦喧嘩は起きましたが、最初のケンカが最も激しいものでした。
そしてその内容は、概ね、「なぜ息子がこんなていたらくなのか」という点に終始していました。
私が中学のころに語った青臭い夢についても、時間差で糾弾されました。
母が、私の身の振り方について、ずっと気にしていながらも、全く気にしていないような素振りをとっていたことを知りました。
父は、休日のはずの日にもかえってこなくなり、母はもともとの忙しさから、食事の用意さえしなくなりました。
妹の誕生日さえも完全にスルーされ、ますます妹に嫌われたりもしました。妹は本当にとばっちりです。
高校への学費が納入されないよう手配していたのです。
曰く、「不良が通ってるような学校に行かせても金の無駄」ということでした。
これは結構事務処理的にごたついたらしく、高校を卒業して一年後くらいまで、両親と学校の間で
やり取りがあったようです。
ひでえ親だな
俺、福祉関係の仕事してるんだけど、
そういう親結構いるよ
子供が不憫だ
って思ったらちょっとカレー食べたくなってきた
学校にとけ込みました。
私はこのころから、小説家になりたいと志すようになっていました。
直木賞作家とか、そういうのではありません。つまるところ、ライトノベルを書きたいと思うようになっていました。
そしてその志ゆえに、もう一度、母と大きな衝突をしました。
あ、小説家志望だからといってこの文章はフィクションじゃないです。念のため。
>>1は結構文才ある
小説家になれ
疾走のやり切れなさは東野圭吾の「手紙」以上。
リアル感としては芥川の「河童」以上だな
ゆうパックで送ったので、「送致しました」の報告が、家に届きました。
どうも、それを母に見られたようでした。宛先には「○○小説賞選考係」と書いてあったので、それまでのこともあって、
母はすぐに私の志に気づいたのでしょう。
ある日、「アンタ小説家になりたいんか」と、いきなり向こうから話しかけてきました。愛媛弁でした。
母は鼻で笑い、「なれるわけなかろがね。無駄やがや」と断定しました。
「あんたには関係ないだろ」とつっぱねると、母は「ほならもう金ださんけんね。関係ないけんね。飯もくわさん。自分で働きぃ」
と脅かしてきました。
はっきりと言います。当時の私は、今以上にDQNでした。だからこう言ってしまったのです。
「産むだけ産んどいて、ふざけんじゃねぇよ! あんたには育てる義務があるだろうが、勝手に産んだくせに!」
と。
グッジョブ
俺も親に言ってやりたい
「優しくするな気持ち悪い。いつまで俺の機嫌伺ってんの?」と
過度に期待されすぎて重圧を感じることもあるが
いつか私の髪をひっつかんだ時のように、まったく聞き取れない金切り声で叫びちらし、私につかみかかってきました。
別につかみかかってどうこう、とは母も考えていなかったと思います。ただ、じっとしていられないほどの怒りだったのだと思います。
ですが、中年女性とはいえ、一定の体格を備えた母に飛びつかれたら、こちらも無抵抗ではいられませんでした。
母をなんとか引き剥がそうともみくちゃになり、床の上を転げ回りました。
不思議なことに、あれほど聞き取れなかった金切り声が、ある一瞬だけ聞き取れました。
「思い知れ! 思い知れ!」
と、母は何度も叫んでいました。
夢を否定する奴はいかん
部屋の中がめちゃくちゃになっていました。
本当に、物を投げつけまくったあの中学生の夜の再現のようでした。
母は肩で息をしながら「よう言うた…よう言うたな…よう言うたわ…」と、つぶやき続けていました。
そして、そのうち、それは泣き声に変わっていきました。
それ(I't)と呼ばれた子を思い出した >>1のカーチャンみて
自分は小1のとき母親にピンク似合わないと言われてから
ピンクや赤の服や小物をいっさい持たなくなった。
母「アホッ! ダボッ! こっちがどんな気持ちで産んだ思とんよ! 泣きっぱなしよ! 産んでから泣きっぱなし!」
俺「じゃあ産まなきゃいいじゃん」
母「産まれたのがアンタみたいのやったから、やりきれんわ!」
俺「じゃあ新しいの産めよ。俺は勝手にやってくから」
母「ハッ。できるわけなかろが。なんも立派なこともできん。情けないことしかできん。夢も情けない。アンタ人に誉められたことなかろが」
俺「ある」
母「おーおー言うてみぃ。言うてみぃや」
俺「ちっちゃい頃、時計が読めるって誉められた。名前が漢字で書けるって誉められた」
このとき、唐突に、そのことを思い出したんです。
俺「あんたが教えてくれたから」
母「…………」
俺「…………」
母「あのころはまだ、産まれてきてよかったと思とったわ」
子供の時には分かんないんだよなぁ…
全然美人でもお洒落でもないけどカーチャンの息子に生まれて
本当に感謝してるわー
手伝おうとしましたが、「いらん。出ていけ。いらん」と言われ、どうすることもできず、自分の部屋に戻りました。
すると、言い足りないことを思い出したのか、母の言葉が壁の向こうから聞こえてきました。
「ほんま嬉しかったのに。やっと産めた、よぉ産まれてくれた……」
「なんでやの…なんでぇね。なんでやの……おかしい、おかしい」
「『妹』がおらんときでよかったわ……」
ああ、妹が塾でいないタイミングを見計らって、話しかけてきたんだな、と、わかりました。
この母親やばいよ
同情せざるをえないようなことを口走ったと思ったら急に元の性悪に戻る性格だとおも
度を越すと両者のためにならねぇんだな
更年期障害っぽい感じがするんだけど
食事の用意はもちろんのこと、学校への定期代も出してくれなくなり、登校が難儀になりました。
バイトをしようかとも思ったのですが、ここに来て、普段家にいないくせに、父が「高校生のうちはいかん」と、
バイトを許してくれませんでした。片道70分かけての自転車登校生活のはじまりです。
おかげで、当時は人生最軽ガリでした。そして今も、サイクリングが趣味です。余談ですね、すみません。
父親は事情を知ってたのに援助してくれなかったの?
それにしてもやりすぎだけど
ポンズにきまってんだろ。
しかし、妹が受験間近であることを理由に、単身赴任という形に落ち着きました。
父が気にしてくれていたかどうかはわかりませんが、家族内での相談において、私の進路への影響はまったく考慮されませんでした。
この単身赴任が、家庭の空気に非常に良い影響を及ぼしました。
まず、両親が顔を合わせるとほぼ確実に巻き起こっていた夫婦喧嘩がなくなり、母と妹は仲良しになっていきました。
父が動けないので、母の方が大阪に遊びに行ったりもしていました。
そして私は家庭内で空気と化しました。逆に、やりやすかったですが。
学校の成績は悪いほうではなかったので、指定校推薦で大学に行けることになりました。
両親と金の話で色々ありましたが、父が全面的に請け負うということで、母も「勝手にしろ」的に納得しました。
そして、父の強い勧めで、大学が斡旋している安い学生アパートに入る方向で固まりました。
言わずもがなですが、父のこの采配は、私と母の接触時間を短くするためです。
深読みに深読みを重ねれば、父が大阪からこっちに来ようとしなかったのも、もしかしたら母と私の距離を取らせようとしたためかもしれません。
大学生ともなると、さすがにもういじられることもなくなり、ようやく平穏な暮らしができるかなと思ったのもつかの間。
私の基礎学力がもの凄く低いことがわかりました。
工業高校では専門系の授業が多かったため、一般教養的な高等数学であるとか、応用物理学であるとか、
そういった理数系の分野は、基礎をちょろっとさわる程度しかやっていなかったのです。
目安としては、微分積分のビの字も全くやっていなかったくらいです。
……留年が確定しました。
学部は何なんだ
狭い門をくぐってきたため、特定される恐れがあります。秘密ということで。工業系でも割と特殊な高校だったんです。
微積は愚か、コンピレーションとかニュートンの運動法則さえ習っていません。
また、大学は理系のため、理数系の単位は必修です。現在進行形で地獄です。
いいから続き書けw
学校でなにかある>両親報告>ドカン バキッ
これは本当にパターンでした。
そして、この留年が、母との最後の衝突になりました。
母は、私の留年を許しませんでした。
微分積分は普通に習うだろ?
俺が行ってた工業高校(その地域では一番Lvが高いが全体から見れば下の上)は
微分積分は選択科目での授業でしかやらなかったよ
環境きびしくてもオタは似たような道たどるんだな
学費がどれだけ高くついているか、留年によってどれだけ出費がかさむか、
そして、私がいかに、家庭においてのお荷物となっているか、いつもの調子で言われ続けました。
私も、本人を目の前にしていない気楽さと、長年の慣れから、はいはいすみませんねーと、
実に不誠実な対応をしていました。
ただ、父には大変申し訳なかったので、父にはこちらから連絡しました。
そのとき、父の態度に違和感を感じました。
父『お母さん、どうだった?』
私「いつも通りだったよ」
父『ああ、やっぱりか。ならいいよ、なんでもない』
私「? ……またなんか、あの人ともめてたりする? 俺のこと?」
父『それはずっと続くだろうね……ま、君はとっとと大学出て下さい』
このとき、既に母は、そっちに向かって歩き出していたそうです。
メールなんて滅多によこさない妹から、『お母さん入院した』とだけ書かれたメールが着、
以前の父の態度に思い当たって問いただした所、ここ数年で、母が肺病を患っていたことを知らされました。
詳しい病名などは聞きませんでしたが、肺の中にある種のカビが繁殖してしまう病気だそうです。
病院に見舞いに行きたいと言っても、父が「下手に君たちが顔を合わせると、お母さん悪化しちゃうかもしれないから」と言い、
それを押し切ることもできなかったので、そのままにしていました。
正月には、父方の実家に顔を出しましたが、母はいませんでした。ホッとしたというのが本心です。
そして、夏になりました。今年の夏です。
試験の結果待ちではありましたが、一年前の必修はなんとかなりそうで安心していました。
そこへ、妹からメールが来ました。
『もう夏休み?』
「サマーホリデイです。高校生よりずっと長く休めます」
『お母さん死にそう。帰ってきて』
私が大学で数字と苦闘している間、母の病はどんどん進行していました。
サマーホリデイいうなw
なぜ今まで知らせなかったのか聞くと、「その方がいいと思ったから」とのこと。
誰が誰と打ち合わせたわけでもないのに、誰も私に母の病状を伝えようとはしなかったのです。
バイトを休み、母が入院している病院に向かいました。
父、妹、父方の祖父母が、病院に控えていました。
最後に見たのは、多分二年前の正月だったと思います。
いつかとっくみあいになって、なかなか引き剥がせなかった体格は見る影もなく、本当に、
骨と皮だけになってしまって、別人のようでした。私と母の確執を差し引いても、
とても母だと信じられないような変貌ぶりでした。
「あー、ああー」と喉をならしはじめました。
そういう声は祖母が聞く役だったらしく、祖母は耳を寄せて声を聞き取り、それをそのまま私に伝えました。
『……「しらん」言いよる』
父が「ああ…」とためいきをついたのをきっかけに、私は病室を出ました。
母カッコヨスwww
でも切ねえわぁ
一度、妹がジュースを買いに降りてきて、私の前を通り過ぎました。お互い、言葉を交わすことはありませんでした。
何時間後かに病室に戻った私は、相変わらずビクビクとしている母を眺めていることしかできませんでした。
母は時々たんをつまらせてむせびましたが、その都度、祖父母と父、妹がてきぱきと何かの器具を使い、
たんを除去していました。皆、とても慣れた手つきでした。私だけが、完全に蚊帳の外でした。
それでも死に際だと優しい言葉の一つでも言うんだろうけど
1の母の強さは半端ねえな
少し状況が好転したようで、どうやら今日明日中に……ということではなかろう、と説明されました。
父「今日はかえっていいよ。わざわざ来てくれてありがとう」
私「いやいや、なんでお礼言うのよ」
父「……父さんも仕事だから、もう大阪に戻らないと」
私「……お医者さんは好転したって言ってたけど」
父「もう、無理だね」
私「……なんでそんなになるまで黙ってたのよ」
父「……すまん、すまん」
その日は、そのままアパートに帰りました。
こういった事情なので、近いうちにまた突然お休みをいただくかもしれない旨を伝えましたが、
あっさりとそういう配慮ができた自分が、嫌でもあり、不思議でもありました。
母が他界したのは、私が見舞いに行ったきっちり一週間後のことでした。
結局、母を看取ることができたのは、祖父母だけでした。
時間が遅かったため、私が駆けつけられたのはその翌日でした。
葬儀などの手配は、すべてすんでいました。
小さな葬式会場に、親類一同が集まり、また、出棺の見送りなどで、母の職場の人が挨拶に来ました。
私も、長男と言うことでそういった方々と顔を合わせることがありました。
そして、「息子です」と自己紹介すると、皆、「えっ?」と、ちょっと変な顔をしました。
これは今だに確認したわけではないのですが、恐らく母は、周囲に「息子はいない」というようなことを、
話していたのではないかと思います。
うわあ…いなかったことにされてるんかい
母親をここまでさせた1に問題あるんじゃないかって思うのは俺だけか?
最初から読み直しても分からないなら
お前には一生分からない
霊園付きの火葬場は想像よりずっと色彩豊かで、鮮やかでした。
祖母が「こんなところからあの世に行けるなら、ええね」と、しみじみつぶやいていました。
火葬中は、遺族はすることがないので、火葬場の控え室の中で待っていました。
皆、それなりに湿っぽくはあるものの、談笑する人たちもおり、また、父と妹も、親族と微笑を交えて語っていました。
最初は違和感をおぼえましたが、それは、私以外の遺族は、もう母の死に対してしっかり心の準備をしていたのだと、
思い知らされました。
だからって暴力に屈した息子を全力で否定したのはどうかと思った
すげーヒステリックなんだもの
流れをつくったのが母
骨壺に納める骨を、火葬場の人がつぶしているのを見るのがつらかったです。
一通りの儀式が終わり、親族たちもちりぢりになり、私の回りには、父、妹、祖父母が残りました。
妹は夏休み、父も休みが取れているということで、一度、愛媛の父方の実家へ行き、そこで数日を過ごしました。
こういうとき、父や祖父母から「実は母さん、あんたのこと気にしてたんやで」みたいな話を聞かされるパターンがありますが、
私の場合、そんなこともなく、むしろ周囲は「私の前で母親の話をするのはよそう」という空気を醸していました。
ただ、このスレを立てようと決断するに至った、ちょっとした出来事が、ついこの間あったのです。
俺もいじめられっ子だったしな
うちの祖父はわりと愛されてたけど火葬のころには結構みんな談笑してたよ
いとこと弁当ウマーみたいな感じのことはなしてた
親戚が集まれるのは結婚式か葬式くらいだもんな
母たちと暮らしたマンションの一室は、父の会社の方が転勤の際に好意で貸してくれた、もとは事務所的な部屋だったので、
母が他界したことで、そこを引き払うことになり、それをきっかけに、本格的な遺品整理がはじまりました。
ちょっとこの辺込み入った流れがあるので詳細は省きますが、その遺品整理がきっかけで、父方の実家にしまい込まれた、
母の遺品の一部が見つかりました。
その中に、ピーターラビットの絵本を見つけたのです。
私が自分で書いた、漢字の名前入りです。間違いありません、母に捨てられたと思ったあの絵本です。
かなりのものがそこから見つかりました。
ただ、すべてが見つかったわけでもありませんでした。
これまでスレに書いたものでいうと、ツインテールのソフビ人形と、ナイトガンダムのプラモ、
あの辺のものは、今も見つかっていません。
絵本と、人形やプラモでなぜ扱いが違うのか、最近までずっと謎でした。
なので、ここからは完全に我々遺族の予想となります。
黙ってるだけじゃ分からんよ。
古来よりこういうのを思念怨念と言うのだろう
Tさん呼んでこい
他のものも、すべて母が直接買い与えてくれたものでした。
「自分で金出したから、勿体ないと思ったんじゃないか」というのが、父と妹と私、三者の間で共通した見解です。
人として終わってる。下地を作ったのは
お前は今まで何を読んでたんだよ
結局>>1がチキンで頭悪いって話だろ。板違いもいいとこ
さっさとお前もお前の糞ババアのとこいけよ
悪いがこのスレに書いてる母情報だけで
>>1の母なら有り得そうだと思ったwww
母は、私に買い与えた物には、必ず名前を書かせました。
最初のほうで書いた、名前を漢字で書けるようにする練習のついでであり、私も最近まではそれ以上の意味を考えてはいませんでした。
ですが、人形やプラモのような、この遺品から見つからなかった物に関して、名前を記入した記憶がありません。
『名前が書かれていなかった』というのが、大きな理由ではないかと、考えています。
そうじゃない話を聞くと違和感というか恐怖感がある
遺品からやっぱり子供を愛してましたって言う証拠が見つかることを期待するが・・・
最初の最初は愛してる節があったのにな。
最初のいじめがなければ…
まとめるのに手こずっています。もう数十分で決着ですので、平にご容赦を。
何か思い当たりそうな事か、こうではないか?と推測できそうな結論は出せそう?
答えは見つからないのかも知れないが気になるな…
母にこれがある以上、1がどうしようが結果は大差なかっただろうなあ。
2人の流産は悲しい事だが、それを理由にしてしまう弱さが母にあったんだろう。
もしかしたら、母が、私から取り上げた品々を実際に捨てたのは、大分後になってからのことなのではないかと思うのです。
明確な根拠があるわけではありません。
もしこの予想が当たっているとして、時期的には、私の小説家志望のことで大喧嘩した、あの直後に捨てたものと思っています。
私と母との関係が変わるほどの事件は、リンチ事件をきっかけとした物捨てられ事件と、高校の時のとっくみあいなので。
とっくみあいの後、母は本当に心の底の底まで私に対して失望し、いつか返すつもりだった品々を処分することを、決めたのではないでしょうか。
しかし、その中には、母が私に教え込んだ、あの漢字の名前が記入されているものがあった。
あのケンカの後、私は母に「名前が漢字で書けるってほめられた」と言いました。
もしかしたら、それが、母の心に、なにかをうったえかけたのかもしれません。
そういう伏線か…
でも今までの聞いてるとそれも悲劇のヒロインぶってて何かなぁ…思ってしまう
そして、これが仮に真実だったとしても、今の私には、そこから母の愛情をかいま見ることはできません。
また、こうして改めて自分の人生を振り返ってみても、自分の愚かさばかりに眼がつきます。
愛される資格は、やはりなかったのかもしれない、と、ちらりと考えてしまいます。
私はやはり、母親の愛情には飢えていました。
そして、母がもっとやさしい人だったら、納得のいく形で永別できたのでは、と思ってしまう。
でももう、母は私や、家族らの頭の中にしかいません。私の中にいる母は、笑っていません。甘えられません。
私は、今でも小説家志望です。次の新人賞も狙っています。
これまでは、なんだか格好良い、画数の多い雅やかなペンネームで投稿していました。
けれどこの遺品たちを見つけ、次の新人賞には、本名のみで投稿しようと決めました。
私の文章で皆さんに伝えきるのは難しいと思いますが、私の中で、決意の形が変わったのです。
そしてそれを、文章として、私以外の誰かに表明したかった。
このスレは、たったそれだけの自己主張だったのです。
私に、それを言葉にする力がなかったために、こんなに時間がかかってしまいました。
親は子を選べんし逆もまた然りってことかね
んなこたーない
ギリギリ500レス以内でした。
今日はホリデイなので、寝るかスレが落ちるまでは、このスレにいようと思います。
正直、はじめてのスレ立てなので、発散しきったあと、どう振る舞えばいいのかわかりません。
>>1自身も俺らもそれぞれで思索すりゃいいと思うし
っていうか別に作品なわけじゃないからいいのか なんか愛ってなんだろなと考えるスレだな
それが理想で
それが母にとっての『教育』であり『愛情』だったって俺は解釈した。
例えその方法が俺らから見たらいくら歪んでいようが
>>1の人格形成にどんな影響を及ぼそうが。
母親からの愛はもう手に入らないが、他のもので代わりを求める?
それとも代わりじゃなくて、別のもので満たされて満足出来たらそれでいいなと思う?
父親と妹からの家族愛か、友達でも恋人でも
お疲れさま
俺みたいに平々凡々な家で暮らしてきた俺にはあなたに同情できても完全に理解することは難しいと思う
ただ俺も親にぶん殴られたこともあるし家に帰ってくるなと言われたこともある
もう両親とも死んじまった今となってはそれも愛情表現の一部だったと思いたい
もちろんあなたにとってはそんな簡単に割り切れる問題じゃないとも思う
時間が解決してくれると思う、落ち着いて考えたとき、もう一度墓参りに行ってみるのもいいと思うんだ
応援してるよ、がんばっていい作品を書けるといいな
そこに手を差し伸べようとか理解しようとかしない親父に違和感というか
うーん 価値観か結局 俺は親父にすごい違和感がある
私も一人流産して二年前に二人目生まれたんだが、とにかく健康で生きててくれればいいって思うんだけど
さすがにDQNになられたら困るが
うちの家族も全員普通だけど異常でもあり、よく考えりゃ半崩壊してるけど崩壊は誰も望んでないからしないし
文章にするとわかりやすくたいそうな事に感じるけど日々の生活となるとスルー
だが、これが小説になった場合、金を出して買うかと聞かれれば否。
しかし、>>1の文章は嫌いじゃない。
それは伏線というより
1の母親に対する意識の変化を象徴してるんじゃないか?
よほどの時間がかかる、もしくは永劫無理かもしれんけど、愛にしろ憎悪しろ
たとえ途中で放置されたにしても お前と母親には絆が確かにあったと思うぞ
必要とされてないいらない人間だったわけじゃない 母親がお前を型に嵌めようと
したのは、俺はかーちゃんの愛(エゴ)だと思う お前を虐げたのはその反作用ってだけで
きっとお前は愛された実感がないまでもずーっと自分の母親のこと忘れないだろ それが証なんじゃねかね
いじめに負けた弱い>>1を祖母と重ねて幻滅した>>1母が、祖父と重ねて考えていたとは思えない。
500以降くらいのレスで、答えられそうなのに順々に答えていこうと思います。
親父は親父で外で仕事と格闘してたのかもしれんけど それとこれとは別問題な気がするわ
>>537
まだ私と母の関係が致命的なことになる前、昔の母さんは……的な話をした父は楽しそうでした。
そして、単身赴任後の二人も、本当に仲良しでした。
卑屈な考えではなく、ごく客観的な視点からみた場合、私が産まれておらず、妹だけの家庭だったら、
父も母も、あんな冷え切った夫婦仲を経験することはなかったと思います。
>>572
良い経験だったかどうかはわかりません。
ただ、今の私の大部分をたたき上げたのは母で、もし私が小説家になれたとしたら、
そういう人間の書いた小説が世に出ることになるのです。
>>566
その発想はおかしい。
>>1がいなかったら矛先が妹に向いただけ。
>>574
あの妹が母に愛されなくなる展開は、ちょっと想像できません。
君は今でも愛されてなかったと思ってるわけ?
>>577
はい。スレタイの通りです。
『決意の形が変わった』についてkwsk
>>587
とても言葉にしづらいのですが、「小説家になる」という姿勢が、
「小説家になって飯を食う、食わねばならぬ」という姿勢に変わったとでも言いましょうか。
最後の最後まで意志を貫き通した母親に一票。
あーだこーだ言われとるが、義務教育までは確り育ててたみたいだし。
家庭的問題うんだらかんらはあるだろうが、息子に対して死に際まで意思を貫いたのはすごいと思うゼ。
まぁ、>>1は勉強しまくって大学卒業してくんさい
>>589
卒業研究ガンバリマス。
>>596
妹は、兄から見て、いわゆる愛され上手な上、人間のできた、大した奴だと思います。
明確に愛されていたとは思いますが、それは母が妹を愛したのではなく、妹が母を愛させたのだと。
カーチャンは自分の父親を>>1に重ねてたのかねぇ
>>1は母方の爺ちゃんに似てるのかもな
>>597
顔ではなく、性格的な部分で「似ている」と言われたことはあります。酒好きなトコとか(酔って暴れたりはしませんが)。
ただ、親戚が宴の席で笑い話に言っただけのことですし、あまり関係はないでしょう。
妹さんはいまどんな生活を送ってるんですか
>>601
大学受験に失敗してしまったため、父の所に行きました。
今は獣医さんになるためにがんばって勉強中です。湯島天神のお守りを送っておきました。
>>606
いえ、母との訣別みたいな意識はないですね。
多分、母の記憶や思い出とは一生のつきあいになるでしょう。
ちょっと説明しがたいので具体例を出すと、小説家になって、本名で本を出版してもらえる立場になって、
そのうえで、母の墓に「お母さん、俺小説家になったよ。ピーターラビットの絵本じゃない、
俺の名前が載ってるんだ」と報告に行くのが、夢というか目標というか、今やりたいことの最上位です。
そして、それを実行するためには小説家にならねばなぬ、というわけですね。
愛され上手に振舞うしかなかったっていうのもあると思う
俺はその妹の立場だったよ
わめいて母に暴力振るう兄だったんで、寝たふりしたり止めたり子供のうちに殺そうと考えたり
兄が父と絶縁したんで名前出さないように気使ったり家庭の潤滑油の役になったり
親でも見捨てるんだと恐怖を感じてたのか自分は手のかからない子になるしかなかった
>>618
あ、それは凄く納得できます。言われてみれば、そういう面も多々あったかもしれません。
これで妹が私のような人間になっていたら、あの家庭は間違いなく崩壊していました。
特に書いていませんが、あの家庭における妹の存在は、二重の意味で、鍵となっていました。
>>612
今回ピーターラビットなんかが後で出てきたことは、
結局どういう風に>>1に影響したの?
>>620
自分では、まだわかりません。
ただ、あの絵本が見つかったことで、死んで、そのまま過去の人になるところだった母が、
私の心に根付いたことは確かです。
>>615
母のことを恨んではいません。母は私の中で、そういう感情の及ばない存在でした。
なんでVIPに立てたの
>>635
他に行くアテもなかったので……
レスも収まってきましたし、大体こんなところでしょうか。
メモコピペでもない文章につきあってくれた皆さん。励ましてくれた皆さん。小説読みたいと言ってくれた皆さん。
皆さんにお礼を言いたいです。まずは大学を卒業し、生活基盤を安定させつつ、母の記憶とともに夢の実現に向けていきたいと思います。
本当にありがとうございました。
まあ何にせよ>>1今日は乙でした。
そして、ありがとう。
まあ何だ。やりたい事見つかって良かったな。
新人賞取れたらいいな。
あなたの小説を読んでみたいと思った
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