「あなたたち、なぜここに呼ばれたか分かりますか?そこに正座しなさい!!」
おずおずと土足の床に正座すると、リーダーは怒鳴りながら説教をした。
私は何がなんだかよく分からずにただ硬直していた。
恐怖しか感じていなかった。
どうしてこんなに怒っているの?
それがよく理解できず、ただただ怖かったのを覚えている。
書いていて、あの時から何年も経った今でも、体が震えるくらいに。
その宗派的に、男女交際自体があまりよく思われなかったのもあると思う。
ただ、まく吉はリーダーからの厚い信頼を得ていたため、
私が余程悪い、そそのかしている娼婦にでも見えたのかもしれない。
怒りの矛先は私の元へと集中した。
頭の中が真っ白になり、ひたすらに正座をしてうつむいていた。
また精神科の権威ある人として尊敬していたので、
私は自分が余程悪いことをしたのだと思って自分を責めた。
でも心の奥底では納得してなかったのだと思う。
何がそんなにいけないの?きっとそんな気持ちもあった。
説教は、3,4時間続いた。
彼がようやく正座した足がしびれて、よろけながら私たちは部屋を出た。
私は茫然自失としていた。
手をつないだのを見られたのが、そんなに問題になった?
疑問が頭の中をぐるぐると巻いて、底知れぬ恐怖だけがそこにあった。
私はそれまでの人生で、品行方正な優等生、と言われ続けていたため、
自分がそんなに素行の最低な人間として怒鳴られる、なんていうのは初体験で、
だからこそ余計困惑と恐怖を覚えたのだと思う。
まく吉は、部屋から出た後、私とは話したがらずに、自分の部屋に戻っていった。
その日の夜、私はただ帰りたいと願いながら、床に就いた。
同じく正座をさせられ、怒鳴られながらの説教、同じことの繰り返し。
少しでも反抗的な目をしようものなら、「なんだその目は!」と叱り付けられた。
なぜ連日呼び出されて怒鳴られるのか、分からなかった。
なぜサークルの人たちに顔を合わせると、顔をしかめられるのか分からなかった。
なぜリーダーに会うたびに睨まれるのか分からなかった。
なぜみんなまく吉には優しいのに、私には冷たくするの?
そんなに私はいけない子なの?
だけど、誰も知らない土地で、海外で、逃げ出すことも出来ないそんな環境で。
それが3日、4日と続いたため、私は自分が人間としてとても最低なんだと思うようになっていた。
まく吉は、徐々に私から離れていった。
私が部屋に呼びにいっても、無視されるようになった。他の人たちに声をかけても、苦笑いをして白い目で避けて通っていく。
海外である程度田舎な場所にホテルをとっていたため、徒歩での移動はそんなにもできず、相談する相手もなく、私は精神的に追い詰められていった。
楽しみにしてきた海外旅行で、一人ぼっちで外国のテレビを見る・・・自然と涙がこぼれた。
CMで日本企業の車が映し出されると、懐かしく感じるほどだった。
日にちはまだ数日ある。
どこにも逃げられない、人の目が怖くなった。
そんな中で、唯一楽しかった記憶といえば、ひとりぼっちで公園にいたとき。
外国の子供たちが私に声をかけてくれて、芝生の公園で一緒に遊んだこと。
あのときだけは、とても楽しかったのを覚えている。
私はまく吉に疎まれても、他に行く場所がなかったので、なんとか一緒にいられるように、声をかけてついて回っていた。
優しい人だと思った。
そうして、辛かった旅行は終わった。
私はまく吉への怒りも感じてはいたが、それ以上に自分に対しての自信を失っていた。
ようやく自宅に戻ったとき、とても安堵したことを覚えている。
親に「楽しかった?」と聞かれたが、心配させるわけにもいかず、またまく吉の存在を明らかにしていなかったため、作り笑いで「楽しかったよ」と答えるしかなかった。
だけど、これで終わりではなかった。
友達が入ってる宗教だったらちょっとあれなんで
大元は有名どころだと思います
新興宗教とは呼ばれていません
ただ内部は細かく分かれているところがあるので、
一概に問題がある・ないとは言えないと思います
具体的には分からなかったけど、明らかに精神状態が悪く、病んでいるようだった。
私はまく吉を支えないと、と思っていた。
私のせいで、リーダーにも責められたのだから、と。
毎日苦しそうに仕事に行けないと愚痴を言う彼の話を、よく聞いていた。
交際に変化はなく、私はまく吉を信頼していたし、このまま何事もなく過ぎていくかのようにみえた。
私は学校の帰り、偶然、その日はまく吉と初めて会った公園に来ていた。
のんびりしてから、駅に向かう途中、まく吉からメールがきた。
「別れよう」
私は踏み切りの近くまで来ていたのだけど、足を止め、愕然とした。
慌てて電話をかけるも、まく吉の電話はつながらなかった。
着信拒否をされていた。
今は洗脳は解けてるのかな?
この後も色々あったので、完全に回復するまでには2,3年かかりました
今は解けてると信じたいです〜
なんとか完結させられるように頑張ります
ただ、突っ立って携帯を握り締めていた。
なんで・・?
理由が聞きたかった。
蝉の声と通り過ぎて行く電車の色が、異様に頭にこびりついていた。
とりあえず連絡がほしいとメールを送り、
混乱したまま、気づいたら帰宅して自分の部屋にいた。
その日、私はまだ事実を受け止めることもできず、拒否された電話に何度もかけなおしたが、反応はなかった。食欲もなく、ただ苦しくて夜眠ることができなかった。
おそるおそる開いてみると、
「やっぱり別れるのはやめよう」
と書いてあった。
意味が分からなかったので問い詰めたところ、こんな返事が返ってきた。
「リーダーに、夕子は精神異常者だから別れるように言われた」と。
このときの衝撃は、なんというのだろう・・・
今まで当たり前に立っていた地面が崩れていく感じとでもいうのだろうか。
私の人生全てを否定されたような気がした。
もともと、親がその宗教の別の一派に通っていました
宗派は違いますが、大元としては、まく吉のところと一緒です
なので、許可が下りたというのもあります
(書きそびれました、すみません)
なので普通以上に厳しくしつけられたと思います
なおかつ社会地位的には、精神科の学位を持っている人だった。
短い間だが、尊敬もしていた。
その人に「精神異常者」と呼ばれた事実は、あまりにもきつかった。
私はいままで、どちらかというと平凡な高校生で、今まで特段な問題行動を起こしたこともなく、
夢見がち過ぎる性格ではあったけど、どこにでもいる高校生だと思っていたから。
それが、「精神異常者」というレッテルを貼られたことに私は悲しくて泣いた。
それ以上はされてないよね??
まく吉には、キスまでされました。。
「でも私は、夕子をかばったんだ、だから別れろと言われたけど別れなかったんだよ」
そういった。
それが唯一の救いのように感じていた。
まく吉はリーダーのサークルと距離を置いたようだった。
だけど、それから1ヶ月後、私の父宛に波乱を呼ぶメールが届いた。
「おたくの娘さんは、ご両親に内緒で、40代のまく吉という男と付き合っています。
この男は以前私のサークルにいた者ですが、除籍しました」このようにメールは始まっていた。
最後は娘さんと別れさせたほうがいい迄をつづっていた。
それを、私の父は、プリントアウトして、無言で怒りながら私の部屋に投げつけた。
「なんでこんなことをするの?」
私はその紙の裏に、付き合っているのは事実だが、旅行中に連日怒鳴られたことや、
影で私を精神異常者と呼んでいたこと、やましい交際ではないことなどを書き、
キッチンのテーブルに置いた。
そうして自室に戻ってさめざめと泣いた。
母親は、それを読むと、私の部屋にやってきた。
「つらかったね。どうして言ってくれなかったの・・・」
そう言って私を抱きしめて泣いてくれた。
母が私の悩みに対応してくれたのは、物心ついてから人生初めての経験だったので、うれしいような、自分が情けないような気持ちだったのを覚えている。
きちっとスーツを着こなして、見た目は初老としかいいようがなかったけれど、
自分はこれだけの年収があって、きちんと娘さんを養う覚悟がある云々、
結婚を前提に清い交際をしている云々、などを言い、
反対していた父からも一応の了解は得た。
そうして進学のことも、合格したら行かせてやると言われた。
母はあまり深読みできないタイプの人でした
女性の割りに鈍いというか・・・
なので問題が表面化して初めて気づいたんだと思います
ようやく問題に片がついたかな、と思えた頃。
私は、まく吉と別れていた間に起こった真相を知ってしまう。
それは電話での何気ない会話の中でのことだった。
「そういえば、なんであの時、突然別れるなんて言ったの?
すぐに、やっぱり別れないって言われたけど・・・」
それはどうしてもひっかかっていることだった。
言い方が柔らかかったからか、まく吉は少し言いにくそうに、だけどはっきりこう言った。
「実は、別れてた間に、リサちゃんに告白したんだ・・・」
・・・え?
おまけにそれが親ならなおさら。でも親もグルであとは洗脳まっしぐら。
親がグルじゃもう、子はどうしようもねぇ。味方と思っていた親が敵だもん。
どうなんでしょうね、ただ洗脳する人っていうのは、自分自身は正しいと思ってやっているので、
自覚のない場合がほとんどかなと思います
それが悪い方向に転がれば、人生踏み外すこともあるかなって
「つまり・・リサさんにフラれたから、『別れるのやめよう』って言ったの?」
私の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
「俺は悪くないんだよ!!」
彼は、大きな声を出した。
旅行から帰ってきてから、1ヶ月くらいずっと!
だから、私はてっきりリサちゃんが自分と付き合ってくれると思ったんだ!
だけど婚約者ができたからって断られた!私は悪くない!!
全部リサちゃんがそう仕向けたんだよ!」
すごい剣幕でまくしたてた。
そうして、私がうまく返事できないで固まっていると、
「私は夕子のために、別れようって言ったんだよ!そうしないといけないと思ったから!夕子は私のこと信じてくれるよね?!」
「信じてくれなかったら・・・死ぬよ」
ようやく、再起動した時には、
「そっか、私が悪かったんだ・・・私のために、まく吉は別れたんだ・・・」そう考えていた。
とりあえず、喚いてる彼に、
「ごめんね、そっか・・・私が悪かったね、ごめんね」と言ってなだめた。
私はきっと疲れきっていたのかな。
釈然としない思いもあったけれど、その時は、もう彼を許そうと、思っていた。
この時蓋をした、悲しい気持ちが、後々、私の足を絡め取ることになる。
私の親は、心配もしていただろうけど、私以上に悩みの種となっていた兄のことで頭がいっぱいだったのだろう。
結局引っ越し先のアパートに来たのは、契約時と、その後アパートを出る時だけだった。
そして始まった2年間を一言で形容するなら、地獄、だった。
まく吉はヒッヒッヒ 順調だと笑ってたんだろうな。
ここまでで既に洗脳されてるってことかな?
多分、クズ吉の一方的な言い訳で自分が悪かったって思う辺りでもう洗脳されてるんじゃない?もう自分で事の善し悪し決めてないし。
周りから責められ、頼れるのはクズ吉だけだった海外旅行も要因の一つとして。
そうですね、全ての決断の背後に、まく吉が存在するようになっていたので、
ある意味この時点でも洗脳されつつあったと言えるかもしれません
文には載りませんでしたが、宗教の教えによって、こうすべき、と方向付けされることも
多々ありました
帰宅したので今日も少しずつ書いて載せていこうと思います
起きたらたくさんレスついてて嬉しかったです
洗脳に関しては、この後更に色濃くなっていきます
重く暗い描写が増えていきますが、それでも良い方、
読んでいただけたら感謝です
彼は、ほとんど仕事に行かなくなっていた。
そして、貯金が全くなく、生活費のために借金をする有様だった。
当時、
「自分の家族(母と妹)を養うために、お金が必要だったから、貯金は出来なかった。
今も、生活していくためには私が借金をしなければならない」
と聞かされていた。
実際のところ、まく吉はよい給料を貰っていたし、貯金できないというのはおかしな話だった。
浪費三昧の贅沢な生活をしていたのは間違いないのだけれど、まだ社会経験のなかった私には検討がつかなかった。
「家賃の安いアパートに引っ越したらどうかな?」
「出費を抑えることはできないのかな?」
そんな、家庭に突っ込んだ提案をすることはあった。
だけど、
「母に月これだけ渡さないといけないから無理だ、母は高齢だしお金もかかる」
そう返されては、私にはどうすることもできなかった。
「実は、今すでに100万程借りているんだ・・・」
そんな事実を吐露しはじめたまく吉に、
私は焦りを感じていた。
当時借金というと、私の中のイメージでは、
CMにあるような悪徳金融会社しか思い描くことが出来ず、
早く返済しないと、金額が膨れ上がるのでは・・・と思った。
そうこぼす彼を、私は学生ながらに、支えたいと思った。
そうしてアルバイトを始めて、月に1、2万円ずつだが渡すようになった。
彼は、「悪いよ・・・でも助かる。ありがとう」そう言って受け取っていた。
まく吉はしょっちゅう、自殺未遂をほのめかすようになっていた。
明け方も。授業中にも。夜寝る前にも。
私がメールに気づけなかったり、電話に出られないときがあると、
何十通という勢いでメールが来ていた。
「ねえ、電話に出てよ」
「早く来てくれないと死んじゃうよ」
「私が死んでもいいの?早く来てよ」
「今、枕元に首吊り用の縄を用意してるよ」
私のせいで彼が死んじゃうの?怖いよ・・・
いつしかそんな意識が埋め込まれていた。
慌てて電車に乗ると、彼の家まで駆けつける。
着いたら、まく吉をなだめすかして、眠るまでそばにいて、帰宅する。
そんな日々を送っていた。
「授業中、メールに気づかなくたって仕方ないじゃない・・・そんなに言われても、どうしようもできないよ・・・」
とため息をつく時も多かった。
また、私は想像力や感受性が豊かなほうだったので
(影響を受けやすいおばかさんとも言う)、
彼が首吊り用の縄を使って死んでいるシーンなどが脳裏に浮かんでは恐怖におびえていたのだった。
常に緊張の下に晒されていた。
そんなこと、誰にも相談できなかった。
親しかった地元の友達とも、連絡を取ることが少なくなっていた。
短大で新しく出来た友人には、そんな重い話をして引かれるのが怖かった。
両親は、兄の問題にかかりきりだったし、事情を話したら連れ戻されると思い、言えなかった。
進学に当たって、「何かあったら、連れ戻すからな!」そう言われていたから余計に。
電話を切った後、携帯をふすまに投げつけて、嗚咽して泣いたこともあった。
顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、
「助けて・・・誰か・・・」そう嘆かずにはいられなかった。
だけど、私にはどうしたらいいのか、分からなかった。
孤独感に押しつぶされそうだった。
顔も知らない相手に話を聞いてもらう時間が、安らぎになっていた。
彼は、日曜日に、彼自身が立ち上げた宗教サークルに私が来ることも強要した。
私がバイトなどを理由にして拒むと、
「夕子来ないの?じゃあ私も行かない。
いいんだね?リーダーの私が行かなかったら、みんな困るけど」
そういわれて、仕方なく行っていた。
堂々とした態度に、説得力のある話し方、サークルメンバーの相談にも根気良く乗っていた。
みんなが彼を慕い、信頼していた。私は冷めた目でそれを見ていた。
彼の仮面をかぶった上面な話なんて、退屈だったしあくびもした。
「夕子さんは、サークルに来てもやる気が見られないし、
きちんと話を聞いてないですよね。どうも幼すぎると思います。
もうちょっと態度を改めるべきじゃないかと思うので、
まく吉さんから注意してもらえませんか」
私が幼い?どっちが?
サークルに私が行かないと行けないっていうから、辛くても行ってるのに・・・
悲しいやら腹立たしいやらで、気持ちの整理がつかなかった。
しかもターゲット以外には普通に接するハイブリッドw
待てよ…それは全て演技で、実は心理学の著名人とやらとグルになって何か実験してるとか…!
メンヘラですね、確かこの頃は心療内科も通い始めていたと思いますが、
神の力で治癒するからなんとか〜と言って、薬をまともに飲んでいませんでしたね
実験は・・・ないと思われますw
住んでいたアパートは築50年の古い建物で、虫が寄り付いていたので、
ある日、部屋でバルサンを炊いた。
その翌日、部屋の中央に、一匹だけ、仰向けになって死んでいる例の虫を見て、最初はただただ不気味だった。
なぜ真ん中にぽつんと亡骸があるのかな?
例の虫は苦しみながらも殺虫剤のついてない床へとたどり着き、結局死んだのだった。
「これは私じゃないかな・・・」
そんな風に、ふと思ったりもした。
後押ししてくれたのは、ネットで相談を聞いてくれたタケさんという人だった。
「その彼はおかしいよ。別れた方がいい」
再三言われて、私もなんとか今の状況から脱出したいと決意した。
「私と夕子はすでに一つだからね。私は夕子だけを一生愛し続けるからね」と。
なんと言われても、私も限界に達していたので、無理やり距離を置くことにした。
ただ自殺だけは避けたかったので、電話もメールも返さなかったけれど、拒否はしなかった。
その間、私も久しぶりに学校の友人と気兼ねなく遊んだり、飲み会に参加したりした。
だけど、表面上の付き合いという感じが強くて、なかなか心を打ち解けることができなかった。
好意を寄せてくれる男の子もいたけれど、
「若い男は下心しか持ってないから近づいてはいけない」
宗教的にそう教えられていた私は、デートに誘われても、どうしても一歩踏み出すことができなかった。
まく吉とは、そういう関係は持っていなかったから。
私のアパートに訪ねてきた。
「頼むから復縁してほしい、夕子がいないとだめなんだよ。
私が一生愛するのは夕子だけなんだから」
と懇願された。
情が動いたけれど、その時は断って門前払いをした。
彼は、「別れても、私の気持ちは一生変わらない、一生愛し続けてるからね」
と言って去っていった。
バラの花束とかないわー
それは、ネットで知り合い、まく吉の話を聞いてもらっていた、タケさんだった。
私は悩んでいた。
友達経由で知り合った人たちとは違って、彼には私の事情を理解してもらっている。
他の男性と付き合うのが怖くなっていた私だったけれど、この人なら、と揺れていた。
そんな頃に、まく吉からの電話が鳴った。
なんというか、その頃の私はすでに依存症になっていたかもしれませんね
別れたのはいいものの、一人が耐えられなかったというか
情けない話です
「私達は、2年前、神の前で互いに一生愛し合うと誓ったよね?それを反故にするの?
それはつまり、神を裏切ることになるけど、それでもいいの?」
神を裏切る・・・すでに宗教に染まりきった私にとって、それは重罪行為に感じた。
返事にとまどった私に、まく吉はこう続けた。
「夕子、正座して聞きなさい。今、神がこう仰せられています。
夕子よ、あなたは、私との誓いを破るのか。私との誓いを破ることを、私は許そう。
しかし、それによってあなたの人生が荒んだものとなるのは承知しなさい。
もう一度聞くが、あなたは私の誓いを裏切るのか?」
私は、その言葉に口をつぐんだ。とても重みのある言葉に感じた。
そうして、結局私は、裏切ると言うことが出来なかった。
私は、まく吉の下に戻っていった。
神のお告げとかワロエナイ
「元彼とよりを戻すことになりました。
やはり付き合えません、ごめんなさい」と伝えた。
するとタケさんは、
「そっか・・・。ごめん、辛すぎる・・・。俺・・死ぬかもしれない」
と言い出したものだから、私は仰天した。
「とにかく会ってほしい、今一人でいたら、おかしくなりそうだ」
というタケさんと会うことにした。
そうこうして、慌てて出かける準備をしている真っ只中に、まく吉から電話があり、
「今どこにいるの?」
と言われたので、
パニック状態に陥っていた私は、
「今、ある男性のところへ向かっているの」
とつい口を滑らせてしまった。
まく吉は発狂した。
彼は、「薬を60錠飲んだよ、助けに来て!早く!」と叫んだ。
私はますます混乱した。
まく吉の母からも、
「あんたが来ないとうちのまく吉が死んじゃう。あんたのせいよ!早く来なさい!」
と言われた。
あの時のことを、世間的には修羅場と呼ぶのかな?
体が2つもない私は相当焦った。私のせいで、人が死ぬかもしれない、
そう思うと胸が痛くて倒れそうだった。
自分を持ってないというか…育った環境のせいでこんな面倒に巻き込まれる不遇
>>220
主体性のなさ、というのは本当に今ひしひしと感じています
自分で責任を持って行動することから、ずっと逃げてきたのかもしれませんね
まく吉のお母さんも、心療内科に通っていました
理由に納得はしていなかったもの、話し合いの結果、
タケさんは落ち着いた様子で、
「わかったよ、なんか来てもらっちゃってごめんね。
彼氏が心配だろうから、帰りなよ」そう言ってくれた。
ちなみにまく吉は薬を吐き出して、事なきを得たようだった。
彼の母には恨み言を言われたけれど。
彼はサークル内の女性とまたも親密な関係になっていた。
その女性(ユミさんとする)に頼まれて、ユミさんの部屋に行って一晩泊まったと聞いたり、彼女が手を握ってきた、など。
彼の話はいつも、「相手の女性が誘ってきた」という口ぶりだった。
当時の私は、それでも彼を信じていたので空恐ろしい。
ただ、性的な面では、彼は潔癖だったので安心していた。
自分では、ほとんど自覚はなかったけれど。
気づけば、また季節は巡り、卒業まで半年の時期になっていた。
私は、そんなまく吉の束縛に対しても、ずいぶん慣れてしまっていた。
異常という感覚が麻痺していたのだろう。
更に、薬物投与の関係で、まったくだったみたいです
精神病自体があまり知られてなかったので、特に反対されたり意見を言われることはなかった。
何より、自分が、幸せだと信じたかったのかもしれない。
ある日、宗教サークルからの帰ると、まく吉から電話があった。
「今日、帰り道に、何考えてた?」
私は、これからの将来どうなるのかな・・・という思いに耽っていたところだった。
卒業後、心理学の専門学校に行くって言ってたけど、
貯金はまだ貯まってないし、とりあえず実家に戻ってアルバイトでもしようかなって」
私が行こうと思っていた専門学校は海外の学校だったため、
9月から新学期が始まる予定だった。
「そうか、将来のことを考えていたんだね。結婚のことは考えなかった?」
「うーん・・、まく吉の年齢を考えたら、先に結婚してから専門学校に行く準備をしたほうがいいかな・・・とも思ったよ」
まく吉は意味深な雰囲気で間を取ると、こう言った。
「実は今日、私達は卒業後結婚すべきだってお告げが来たんだ。夕子にも同じ思いが与えられたみたいだね」
「え、そうなのかな?でも、そんなことあるのかな?」
「これは間違いなく啓示だよ。私には分かる。夕子、結婚のこと考えてみてほしい」
私はその時、まく吉の言葉を完全に信じていた。
もうこれが運命なのかな、と感じていた。
今、どん底にいるけれど、これ以上のどん底はないだろう。
あとは、良くなるだけ・・・そんな期待を抱くようになっていた。
それまで進学のために貯めていた100万程のお金は、
ささやかな結婚の費用に当てることに決まった。
まく吉が会社にあまり行けていないことは、両親も知っていたが、
そこまで酷い状態だとは思っていなかったのだろう。
再度、挨拶に来た時、まく吉はパリっとスーツを着こなしていた。
借金のことは隠して、会社に行けていた頃の年収を提示して、大丈夫だと安心させた。
結果、4年近くにわたる交際の末の結婚ということで、許しがでた。
そして、結婚式当日。
家族だけでの小さな結婚式が開かれた。
純白の花嫁衣裳に包まれバージンロードを歩く私の写真は、幸せそうな顔をしているように見えた。
そこでひとつハプニングが起こる。
私は式の途中で、眩暈を起こして倒れかけてしまったのだ。
その後は、ずっと調子が悪くて、なんとか式場の進行をこなしているところだった。
その日、私が事前に知らされていた予定では、私の家族と、まく吉の家族は、母と妹とその娘だけが来ると聞かされていた。
あとはまく吉の友人が二人。のはずだった。
ヴァージンロード…
ひと段落して二人になった頃、まく吉妹の旦那さんから電話が鳴った。
そして1時間にも及ぶ電話。
まだ肌寒い季節に、私は袖なしのドレス一枚で、駅構内で震えていた。
まく吉は暗い顔をして戻ってきた。
そしてこう告げた。
「妹の旦那さん、夕子のことすごく怒ってたよ。
せっかく来てやったのに挨拶もしないなんて非常識だって。
これだから若い子と結婚したらダメになるって。
妹の旦那さんも、バツ3だけど若い子と結婚したときは、すぐに離婚したんだって。
私が代わりに謝っておいたからね・・・ひどい目に遭ったよ」
「妹の旦那さんが来るなんて聞いてないよ・・・。
顔も知らないけど、いったいどの人のこと?」
「来てたんだよ、夕子が挨拶しないから、私が怒られたんじゃないか!」
結婚式当日なのに、非難されて泣きたい気持ちになった。
夕子の生真面目すぎるとこは性格もあるだろうけど
>>248
まく吉の母は心療内科に通っていて、妹の家族が引き取りました
妹はというと、まく吉が会社に通えなくなって借金をしはじめた頃に、
結婚して家を出ました
自分のお金はきちんと貯金していて、すぐにマイホームを買っていました
友人は宗教関係の人が2人ほどしか。一人はサークル仲間のユミさん
もう一人は、遠方に住んでいる男性で、どちらも結婚式に参加してくれました
もともとの性格、判断能力の低さに40過ぎの男が付け込んだ話だな
そのとおりですね
絶妙なまとめだと思います
釣りだったらいいのに(´・ω・`)
恥ずかしい話ですが、私は過去の日記なども読みながらこれを書いていて、
そして時々思い出して泣いてしまっています
今はほんと、もうとっても元気なんですけどね
ずいぶん当時のことも細かくは忘れてしまったので、
会話形式などにできないところもあります
結婚してからの話です
内容的には、16才から現在までの、折り返し地点かな、という感じです
最初の方こそ、まく吉は出勤してくれて、私も家事にいそしんでいたが、
結局1週間も経たないうちに、また仕事に行けなくなってしまった。
いつしか、再び自殺未遂を繰り返すようになり、
勝手にネットショッピングをしては浪費をして、借金は膨れ上がるばかり。
結婚して1ヵ月後、彼はとうとう会社からリストラされた。
これ以上どん底はない、と信じていたけれど、更に落ちることがあるなんて。
結婚して、さあ頑張ろうという意思は、もう消えてなくなっていた。
だんだん家から出るのが怖くなってしまい、買い物やゴミ出し以外では外出する機会も減っていった。
人の目が怖くて仕方なかった。
「元気にしてる?」
その問いかけに、作り物の
「うん、元気にしてるよ」の返事が、出来なくなっていたから。
もう元気なんて、どこにもなかった。
ただ、絶望だけ。
話の冒頭にでてきた、児童保育のSさんの奥さんから、贈り物を頂いた。
だけれど、私は完全な無気力状態になっていて、お礼の手紙ひとつ書くことが出来なくなっていた。
数週間後、
「うちの奥さんが贈り物をしたのに、お礼ひとつよこさないなんて、失礼じゃないか」とお叱りのメールをもらった。
それを読んで、私は泣いてしまった。
「うちの奥さんが贈り物をしたのに、お礼ひとつよこさないなんて、失礼じゃないか」とお叱りのメールをもらった。
それを読んで、私は泣いてしまった。
実は、短大時代でまく吉と別れようかと悩んでいた時、
Sさんにだけは相談できるかも・・と思って、私は幾度かメールをしたのだけれど、
返事は一度も返ってこなかったのだ。
あの時、SOSを出せた唯一の知人はSさんだけだったので、切なくなった。
でも、それすら出来なくなってしまった自分。
しなければいけないことも、何もできない。
ぼーっとしていると涙がにじんでくる毎日。
ベランダに出て、ここから飛び降りたら楽になるかな・・・そう、カウントダウンしては、
理性が押しとどめて部屋に戻るような、そんな暗い気持ちに苛まれていた。
まく吉の自殺未遂で、あれだけ苦しめられた私が、同じことをするのは間違っている・・・
みんなに迷惑をかけてはいけない・・・そう自分を戒めた。
勉強会という名目で。
深夜、私が、ふと目を覚ますと、まく吉はその女性に電話で愚痴をこぼしていた。
「私が辛いのに、夕子は起きてくれないんだ。
私がこんなに苦しんでいるのに、体をゆすっても、起きてくれないんだよ」
寝ているだけなのに、なんでそんなこと言われなくちゃいけないの?
四六時中、まく吉の相手を出来るわけないでしょう・・・
私には色々な感情があったはずだけど、ほとんどが機能しておらず、
ひたすらにどうでもよくなっていた。
冬の到来と共に、私の大好きだった祖母が脳梗塞で倒れた。
おばあちゃんは、とても温かくて、にこにこと笑顔の絶えない人だった。
私が返事が出来ない状態に陥っても、毎月のように絵葉書を送ってくれていた。
結婚が決まった時に、両親には「絶対に帰ってくるなよ」と言われたけれど、
祖母は「辛くなったら、いつでも帰ってきていいんだよ」と私を送り出していた。
知らせを聞いて急いで実家に帰り、祖母の入院している病室へと向かった。
ようやく会えた祖母は、目を開けることも、口を利くことも出来なくなっていた。
「夕子だよ、わかる?」
私は手を握り締めて、耳元で話しかけた。
おばあちゃんは、私の手を弱弱しく握り返してくれた。
温かい手だった。
何度も何度も、話しかけるたびに、ゆっくりだけど、ぎゅっぎゅっと手を握ってくれた。
私は泣いていた。
なんでおばあちゃんに手紙を返さなかったんだろう?
話せる間に、もっと色々なおしゃべりをしなかったんだろう?
ごめんね・・・ごめんね・・・
脳梗塞で、意識は火事に包まれているような苦しい思いをしているという話を医者に聞いていたが、
それでも祖母は私が話しかけて手を握ると、微笑んでいるようだった。
それが、何よりの慰めだった。
おばあちゃんが好きだった、童謡の歌をラジカセで流しながら、
面会時間ぎりぎりまで、私はおばあちゃんに会いに行っていた。
それから、数日後、祖母は亡くなった。
母は、「おばあちゃんはみんなにお別れを言えるように、頑張ってたのよ」と言った。
私があんまり悲しむものだから、兄は元気付けようとからかって笑わせてくれた。
父は、夕子が泣くのを初めて見た、と母に向かってつぶやいていた。
私の心には、ぽっかり穴が開いてしまった。
今日はそろそろ眠りたいと思います
祖母が亡くなり、もうしばらく辛い話が続きますが、
まもなく転機も訪れます。
また暇な時に覗いてくれたら嬉しいです
次の書き込みは、遅くても月曜日になりそうです
今日もお付き合いしてくださって、どうもありがとうございました
おやすみなさい
私はまだ学生だったので、特に金銭に関して要求されたことはありませんでした。
社会人で、稼ぎのある人だったら、ある程度お金を要求されたかもしれません。
ちなみに私の実家が通っていた宗派では、生活に支障をきたすような悪徳な取り方はしていませんでした。
では続きを載せますね
家に戻った時、私はまた自分の殻に閉じこもっていた。
お互い特に会話もなく、居間でそれぞれのパソコンを見ている日が続いていた。
まく吉は相変わらず、パソコン上で宗教の論争に明け暮れているみたいだった。
そうして結婚して1周年を迎えたけれど、そこに喜びはなかった。
乗り切った・・・そんな印象。
私はもう限界だったのだと思う。
ささいなケンカが発端だった。
私は、いつもなら「死なないで」と懇願して止めたものだが、
その時、魔が差した。
「じゃあ、私も死ぬよ」
そう口にしていた。
それまで、決して言わなかったその一言が、ぽろっと出たのだ。
ただただ、私は疲れ果てていて、眠るように死にたかった。
誰も私がずっと苦しんでいることに気づいていなかった。
この3年に渡って
周りの人も家族も友人も、誰も・・・誰も・・・。
私が死んでも、誰も悲しまないんじゃないか・・・
もう、いいや。
私は人生を投げた。
当時はっきりとは知らなかったけれど、数十錠で致死量に達するものだったらしい。
私とまく吉は、それと他の薬をあるだけ服用した。
彼は、病院に行って薬をもらっては、飲まずに置いておくことが多かったから。
意識が遠ざかる中で、「ごめんなさい・・・」そう思った。
私とまく吉は、心中自殺を図ったのだ。
私は、あの時、死んだと思った。
目が覚めたとき、私は病室にいた。
救命器具が頭の上あたりにぼんやりと見えたのを覚えている。
どうやら胃洗浄というのをされたらしい。
あとで聞いた話によると、
まく吉は薬を飲む直前に、友達に電話をしていた。
その友達が、どうも様子がおかしいというので、救急車を私達の住所まで呼んだのだという。
病院の人の話が、薄れていた意識の中で聞こえてきた。
遅ければ命はなかったと。
まだ薬が効きすぎていて、その時の記憶はほとんどない。
霞がかった意識の中で、私は実家に戻っていた。
まく吉も一緒に、引き取られていた。
ようやく意識がはっきりしてきた私は、今度はパニック発作を起こしていた。
なんとか体を起こしたいのに、硬直してしまっている。
手に力を入れようとしても、指ひとつ動かない。
声が出ない。
目が開けられない。
私は自分の身に起こっている得体の知れぬ恐怖に怯えた。
私は発作中、死ぬのではないかという気持ちに駆られていたため、
最後に会えて嬉しいような申し訳ないような、複雑な気持ちでいた。
でも、きっと本当はほっとしていたのだと思う。
終わったんだ、って。
生きてるんだな、って。
下着までも。
下着ひとつ変えることすら出来なくなった自分が、情けなくて、涙が溢れた。
でも同じくらい、久しぶりに誰かに大切にされて、その温かさに胸がいっぱいになった。
私、ちゃんと必要とされてたんだなって。
大事に思ってくれてたんだなって。
父は、ものすごく怒っていた。
それで、私達には、出来るだけ優しく接してくれた。
また行動が早くて、とりあえず借金を肩代わりしてくれた。
まく吉が結婚前に抱えた負債は、400万円程に達していた。
住んでいた、ごみだめのようなアパートも引越しの準備を進めて、
実家に私達二人を住まわせた。
当時の病んでいた私にとっては、それは返しきれない絶望的な金額に思えた。
その後、親に連れられて、人生初めての心療内科を経験し、
初めて自分のために出た向精神薬を服用した。
(私は、その頃完全に子供返りをしていたので、
文章が子供っぽいですが、温かい目で見ていただけたら幸いです)
まく吉は隣で寝ているよ。たくさん私のためにお祈りしてくれて、
寝不足なんだよ。
私はぼーっとしてるよ。頭の中で考えてることが全部言葉に出ちゃうから、
困っちゃう。でも、気にしてないよ。
ぼーっとしているよ。ぼーっと見てるよ。
笑顔を見ると、安心するよ。
緑がキラキラして綺麗だよ。とっても優しい緑色だよ。
目がうるうるしちゃうの。
私、田舎が好きみたい。
まく吉がお母さんやユミちゃんに会いたいと言っていたけど、
私のせいで会えないかもしれないの。
私、今新幹線で**に行ける気がしないの。
考えただけで、涙が出るの。
家からも、一歩も外に出られないからね。
たくさんの人混みに入るの、やなんだ。
心療内科の待合室だけでも、嫌だったもん。
だからね、許してね。
私、なんにもできないの。
でもね、神様はいいって言ってるからね。
まく吉も、治ったらでいいよって言ってるからね。
そうしたら、まく吉のお母さんとまく吉の妹さんと妹さんの旦那さんとまーちゃんにも会いたいな。
まーちゃん、すごく可愛いもんね。
一緒に遊べたらいいな。
いつかお兄ちゃんの子どものくーちゃんとも遊びたいなあ。
まく吉のお母さんも優しい人なんだよ。私のこと、「夕子ちゃん」って呼んでくれるんだよ。
電話には出れないけど、嬉しいんだよ。
まく吉の妹さんも、お兄ちゃん思いの優しい人なんだよ。
いつも、まく吉を助けてくれてるんだよ。
今日、真ん中のお兄ちゃんに会ったよ。
私を笑わせようとしてくれたよ。だからね、嬉しかったよ。
心配してくれて嬉しかったよ。
なにも出来なかったけど、お兄ちゃんが帰るときに、手を振ったよ。
そしたら、バイバイって手を振りかえしてくれたよ。
そんなことが、嬉しいんだよ。
涙が出ちゃうんだよ。
上のお兄ちゃんは、私がいやだって言ったときに、
「嫌だって言うんだからやめときなよ」って言ってくれたよ。
お父さんとお母さんは、何から何まで、世話をしてくれているよ。
まく吉は、いつも一緒にいてくれるよ。
「笑って?」っていうと笑顔を見せてくれるよ。安心するよ。
私、本当に何もできないのに、みんな優しいんだよ。
何もしてあげてないのに、みんな親切にしてくれるんだよ。
私、役立たずなのに、みんな私を愛してくれるよ。
だからね、嬉しいんだよ。
とても嬉しいんだよ。
ありがとうね。
いつも、ありがとうね。
神様、私を生かしてくれてありがとうね。
私は、死にたくて死んじゃったけど、神様は私を見捨てなかったもんね。
みんなへ。
ありがとうね。
大好きだよ。
夕子
私は、孤独から解放されて。
みんなに良くしてもらって、感激していた。
嬉しかった。みんなが、ちゃんと私を見てくれる。
何も出来なくなった自分に、手を差し伸べてくれる。
それが何より嬉しくて、しかたなかった。
だけれど、病気のほうは重かった。
父は、私を「頭がパーになった」と表現したこともあって、泣いてしまったり。
まく吉といる時にパニック発作をよく起こしたので、同じ部屋にはいられなかった。
父とまく吉の折り合いが悪かったのも、私の精神をより不安定にさせているようだった。
ある意味、洗脳からの初めての覚醒だったともいえる。
その時の書きなぐりも残っていたので、ここに載せようと思う。
(今度は、幼児返りを通り越して、なぜか男口調になっています。
精神分裂症ではないですが、そう見えても仕方ないかも、、
本当に病んでいたのだと思います・・・ちょっと口調が恐いかも、ごめんなさい)
ふざけんな、神様へ
マジもーふざけんな。
これ以上、どんだけ苦しめれば気が済むんだよ。
ふざけんなよ、あんな男いらねーよ。
返す。
返却、返品だ。
がんばれ!
何が「一生あなたを愛します」だよ。
何が「夕子のためを思って別れた」だよ。
ふざけんじゃねーっつんだよ!!!
おめーが鬱になったのは、48年生きててそうなったんだろ?
人のせいにすんじゃねーよ。
「リーダーから夕子をかばったから、鬱になったんだよ!!」
ふざけんな、マジ。
死ねよ。
誰をかばったから鬱になったって?
あ、言ってみろよ、コラ?
おめーは見捨てたじゃねーか。
「別れよう」ってさ。
何がかばっただ?
ふざけんじゃねーよ。
おめーが見捨てたんだろうがよ。
「一生、あなたを愛します」とかぬかしやがって。
おめーは結局自分が一番大事なんだろ!!!
ふざけんな、何が「夕子が一番大事なんだよ」だ。
あの時、「別れよう」っつって、リサちゃんとこいったの、
誰だよ?!
リサちゃんに告白したんだろ?
ばーか、あほ、死ねよ、マジで。
んで、「婚約者がいるから、付き合えませんー」とかなんとか言われてさ
私のとこに「やっぱり、別れるのやめよう」とかふざけたこと言いやがって。
あとでそのこと聞いたらさ、
「リサちゃんが、別れろ別れろって言ったんだよ!!私が悪いんじゃないんだよ!!リサちゃんが何度も何度も別れろっていうから別れたんだよ!!夕子のためを思って言ったんだよ!!」
バカ正直に、信じちゃってさ、当時の私。
ばーか。おまえ、ほんとバカじゃない?
その言葉、鵜呑みにしやがって。
本当に自分のために、アイツがそうしたと信じこみやがって。
ふざけんじゃねーよ、マジで。
いっぺん、死ねよ。
一生愛すだの、夕子への愛は宇宙くらいだのぬかしやがって
本当は一番愛してんのは、自分だけだろ!!!!!!!!!!!
ふざけんなって、マジで。
この5年間、どんだけ泣かされたと思ってるんだよ。
どんだけ、自殺未遂に脅されて、嗚咽して、懇願して、
「お願いだから死なないで」って言ったと思ってるんだよ。
ばーか。
ほんとにばーか。
それでも結婚してやったじゃねーかよ。
結婚して、一緒に頑張ろうっつったじゃねーかよ。
結局クビになったら、私に怒鳴り散らして
自殺未遂を繰り返して
いつもしかめっ面。
そんなのずっと見てたら、こっちまで鬱になるっつーんだよ。
それでも、離婚しなかったのは、おめーのこと愛してたからだよ。
離婚状なんて、紙きれ一枚、それを渡さなかったのは、おめーが好きだったからだよ。
ギリギリだったんだよ!!!!!!!!!!!
アンタのこと、誰にも悪く言われたくなかったんだよ。
アンタのこと、好きだったから、誰にも相談しなかったんだよ。。
んで、壊れたじゃねーかよ。
実家に帰るくらいなら、二人で自殺した方がマシだって
薬飲んだじゃねーかよ
自殺、あんとき、それでもしたのは、アンタを見捨てられなかったからだっつってんの。
分かってるの?
あんたのこと、死ぬほど好きだったつーんだよ。
5年間、必死で耐えて耐えて耐えて
アンタの分まで、侮辱受けてやったよ。
アンタのお母さんからも、妹さん夫婦からも、うちの両親からも。
今、病気なんだよ!!
病気で、それでも、アンタのために一生懸命尽くしてきたじゃねーかよ。介護してきただろ?
なのに、なんで気づかないんだよ。
まるで自分だけが人生の終わりみたいな顔ひっさげやがって。
あんたと私はふたりで、一人になったんだろ?!
違うか?!
ったく、こんなこと、病人のアンタにはいえねーよ。
言ったら壊れちまうもんな。
「どうせ俺が悪いんだろ!!!!!!!」
常套句。
「死ねばいいんだろ!!!!!!!!!」
はいはい。
「もういいよ、俺がいなくなればいいんだから・・・」
はいはい。
もうね、疲れたよ。
うちの親は、アンタのこと悪く言うし。
アンタは、うちの親のこと悪く言うし。
ふざけんなよ。こっちの身にもなってみろっつーんだよ。
疲れ果てて、ちょっとPCに向かってるぐらいで、
「夕子は私のこと、愛してないの?!」ってヒステリックに怒鳴りやがって。
あーあ、最低、最悪。
今日は最高に最悪な爆弾まで投げつけてきやがったな。
マジで、これが最後だろーな?
アンタ、自分のために私を見捨ててリサちゃんとこ行って。
リサちゃんにフラれて私のとこのこのこ帰って来たくせに。
てめー・・・・
「夕子をかばったから、鬱になったんだよ!!」
は、ねーだろうがよ!!!!!!!!!!
私は、アンタが私を裏切ってリサちゃんとこ行ったことさえ
ずっと、黙って、誰にも言わなかったじゃねーか。
いっつもいっつも、我慢してたじゃねーか。
愛してたから、我慢してたんだろ?違うか?
ふざけるな。
誰のせいで、鬱になったって?
夕子をかばったから、鬱になった?
はーん?
こんだけ5年間。
どんだけ、アンタのために、アンタだけのために、心砕いたと思ってるんだよ。
もー、疲れた。縁きりてーんだよ。
なのに、結婚指輪、左手から外せねーじゃねーか、ちくしょう。
くっそー、ふざけんなよ、マジで。
おめーが好きだっつってんだろ!!!!!!
そろそろ、気づけ!!!!!!!!
おめーのためにどんだけ、私が無理してきたか、
どんだけ、自殺するまで、夫婦で服毒自殺するまで、
そこまで、愛したのに。
「夕子をかばって鬱になったんだよ!!!」
は、ねーだろうがよ!!!!
バカ言ってんじゃねーよ。
死ねよ
ほんと、一度死ねよ。
私は精神病院行くさ。もう、アンタの顔なんて見たくないからね。
離婚状の代わりに精神病院行くだけっつってんだから、
有難く思っとけよ。
分かったか?
わかんねーだろうな・・・
鬱だもんな・・・
分かるよ、分かる。
46年辛かったんだろ?
分かる、22年生きてて私だって辛かったさ。
でもさ、一つ言わせてもらっていい?
あんたさ・・・・
当たり前だと思ってるだろ・・・
とりあえず、生きてることすら・・・
私に愛されてることすら・・・
うちの両親に借金肩代わりされたことすら・・・・
もう、そろそろいい加減、私を縛るのやめてくれない?
疲れたんだよ、ほんとに。
「夕子、夕子」ってうぜーんだよ。
幼児か、てめーは。
一人じゃ生きられないとかなんとかさ、いいやがって。
私が冷たい態度とったら、薬大量に飲もうとしやがって。
「お願い、お願いだから死なないで」
って嗚咽して、抱きしめて、必死にこらえて。
そんなもんばっかに甘えてるんじゃねーよ。
外面ばっかり、よくってさ。
私には甘えてばっかりでさ。
全部、何かあったら、最後は「夕子のせい」。
あっそう、そうですか。
はいはい。
もう、いいですよ。
この5年間はなんだったんでしょうね?
あなたと過ごした月日は、なんだったんでしょうね?
リサちゃんのことで、裏切ったのに、
誰が、私をかばったんだって??
んで、鬱になったんだって?????????
そう、そうですか。
分かりました。
私のせいで鬱になったんですね〜はい、了解です。
はいはい、そして私が鬱になったのも、自業自得ですもんねー
はいはい。
じゃあ、私は精神病院に消えてやるから。
鬱の原因、いなくなっただろ?
一人で枕濡らして、泣いてやがれ、バカ野郎。
はい、終わり。
夕子
(当時、私はまく吉を「旦那さま」と呼んでいたらしい・・・もう忘れていました)
まず、私が両親と旦那さまの間で板ばさみになっていたことで、非常に苦しみを覚え、そしてイライラして、そして友達二人に泣きついた。
そしたら、チャットをして遅くなった私に、旦那さまが激怒。
そうしてなぜ、板ばさみになっていたのかと問いただしてきた。
私は、そんなこと口が裂けても言えないと思った。
そしたら私の両親に直接聞くと言い出したので、父を呼び出し。
父親とまく吉の応酬が続いた。旦那さまは怒鳴り声をあげて叫んでいた。
「私が悪いんですか?!そうなんですか?!なら出て行きますよ!私のせいで夕子が調子悪くなるなら、出て行きますよ!!」
そんなことを言っていたような。
それで、その後私が泣き出して嗚咽してしまった。
「もうやめて、お願いだから。私が悪いんだから、もうやめて」
だけど、私は女性に全く心が開けないから、、
その人達しか友達いないから、、誰も傷つけたくなかったから、、」
父「女性に心が開けんとはどういうことや?!」
「おまえはなんで俺たち(親)に何にも言わんのや?!」
激しく責められた。
そうして私は幼稚園のときのトラウマから、
女性に服従するような体質になってしまったこと、
そしてそのことを親に相談することも出来ず、それが原因で、
私の中ではもう親というものは存在していなかったことを話した。
父親は更に激怒、その幼稚園のことについてもものすごく怒っていた。
そうして私は連れられるがままに、実家に帰って寝た。
そして翌日、寝た後で心も落ち着いて、旦那さまの世話を焼いたりした後、
母となんとなくしゃべっていたら一番の爆弾がやってきた。
(5年前)「リーダーから夕子をかばったせいで鬱になったんだ!!」
が、彼の本音だということを、知ってしまった。
私はあの時取り乱していて忘れていたのに。
そうして、何かがキレた。
私の中で激しくキレた。
私は、自転車に乗って、田んぼ道を走って、
台風が来るとかゆってたのになんでこんなに空は青いんだ、
田んぼを流れる風は綺麗なんだと思い、そうして気づいたら嗚咽して泣いていた。
泣きながら走り、そうして、木陰に来たとき、私はずっとそこで泣いていた。
どぶ川に、光が弾けて、異様に綺麗でキラキラしていて、
なんだかそんなものをぼーっと見ながら泣いていた。
そして、神様に文句を言った。
それが、上記の「ふざけんな、神様へ」。
だが、怒りも収まると、私はまた旦那さまを抱きしめて「愛してるよ」と言った。
しかし父は、「これで、4度目くらいか?
こんなんじゃ、二人とも良くならん。
夕子は精神病院か・・・まく吉さんは妹さんに引き取ってもらうからな」
といった。私は、放心、しかし身が裂かれる思いでもあった。
私は、旦那さまを愛しているのだから。
転載は以上です。
当時の私は、まく吉に完全に依存していたのだな、と思う。
ここから、まく吉との別離を経て、私の自立への道が始まった。
急に口調変わって不気味かもしれませんが、当時のものをそのまま載せました
切なくなったけど次楽しみにしてる
お返事ありがとうございます
引かれるかなってちょっと心配だったので
レスがついて安心しました
今日はここまでです
何か質問あったら答えますね
この時点ではまだ離婚してないよね?
結婚生活はトータルどれくらいでしたか?
ありがとうございます
この時点では離婚していません
私の病状がかなり重かったので、
判断力が正常になるまでは離婚できない、という医師の判断がありました
結婚生活は、実質、暮らしたのは1年ちょっとですが、
離婚するまでの期間でいえば、ざっと3年ですね
信仰は⁇
今の私の夢は、いつか平凡で幸せな家庭を築くことです
カウンセラーになって大勢の方のために働くことは、
到底かなわなくなってしまいましたが、
私自身がちゃんと自分の足で立って
将来できるだろう、自分の家族を守ってあげたい
子供を健やかに育ててあげたい、そう思っています
あ、信仰ですが、今はよく分かりません
特に強い思い入れは何もないです
でも、どこかに神様はいるんじゃないかなってなんとなく思ってます
今日は睡魔がひどいので、そろそろ眠りたいと思います
また、明日来る予定ですので、お願いします〜
おやすみなさい
みんな大好きw
寝ます
みなさま、レスありがとうございます
いつも読んでくださってありがとうです
まとめてお返事させていただきますね
まず、気分を害された方、ごめんなさい
内容的にも、読んでて苛立つ気持ちも分かります
私自身が、当時の自分を書いていて苛々するのですから
今の私は、全く別の視点で自分を見ています
詳しくはまとめて書きますので、よろしくお願いします
洗脳についてのお話を書こうと思います
これがないと、本当の意味での自立とは言えないので
今までとは違った意味での、重い話になりますが、
お付き合いいただけたら幸いです
理解しがたいところともあるかと思いますが、
読み流していただけたらと思います
私はここまで、あえて書くことを避けていた内容がある。
それは、洗脳されていた、とタイトルで語っている本当の意味。
細かく分類すると、マインドコントロールに当たるのかもしれない。
もちろんまく吉に依存しきっていたのもあるのだけれど、
ここで洗脳という言葉を使うのは、宗教的な背景があるからだ。
昔の私だったら、自分の信じているものを「宗教」と形容することすらなかった。
他の宗教のような俗的なものではなく、真実の世界がそこにある、と信じていたからだ。
その宗教では、いわゆる神の教えに絶対服従せよ、との戒めがあった。
神が人生の全てで、神の仰ることには、完全に従わなければならない、というもの。
また、多くの戒めがあり、それを破ることは重い罪過を負う、ということを教えられてきた。
神を喜ばせるために、人生を捧げる。
これが、すべての基盤になっていた。
まく吉と出会った時、私自身が、すでに非常に熱心な信者だった。
カウンセラーになりたいと思っていたが、それも神ありきのこと。
つまり、人間が苦しみから救われるには、自分の足で立ち上がることが大切なのではなく、
神に与えられた奇跡、恵みによるのである、という考え方。
神に従うことにより、人生は良い方向に導かれる。
もしも、苦境に立たされたとしても、それは神が与えた試練。
喜ぶべきこと。
そう本気で信じていた。
すなわち、
人生の全ては受動的だった。
それが形成されたのは、物心ついた頃からだ。
私の両親は熱心な宗教家だったので、宗教が教える「理想の家族像」を、
子供たちに実行したのだ。
一番最初の記憶として、幼稚園の時に、それはすでに行われていた。
ぜんざい、というのはお餅を神棚に捧げたのち、食べられる正月の食べ物。
それを食べることは、違う宗教にお供えしたものを、食べるということだった。
幼稚園で、ぜんざいを食べる機会があった時、
私だけには、特別なぜんざいが用意されていた。
それは、丸い餅ではなく、四角い餅を使ったぜんざい。
「夕子ちゃんはこれを食べて」そう言われた。
私は、なぜ自分だけが、他の子と違うのか、同じものを食べていけないのか分からなかった。
遠足で神社に行った時も、神社の鳥居をくぐろうとしたら、先生に止められた。
「夕子ちゃんは、鳥居をくぐらないで、こっちから入って」
なぜ、自分だけ同じ行動をしては、いけないの?
幼稚園の私は、疑問に思いながらも、みんなに引け目を感じるようになっていた。
こんな風に親からの宗教的な要求が多かったせいもあるのだろう、
幼稚園の先生は、私を快く思っていなかった。
疎まれ、虐待に近いことすらも、されるようになっていた。
私は、何が悪いのか分からない。だけれど、私は嫌われている。
自分は悪い子だ、人より劣っているんだ、そう思うようになっていた。
その頃から、女性に対する恐怖や不信感が形成されていく。
何か悪いことをすると、
「神様に謝りなさい。なぜ神様の言いつけを破るの?」
そのような叱り方をされていた。
親の命令のすべては、神の命令が基準であって、
私の善悪の基準は、全て、神様に好まれるか、好まれないか
それで決まっていた。
それは、一般的な教育とは、毛並みが違う。
「嘘をついてはいけない」など、道徳観念の同じものも多かったが、
相容れないものも、多かった。
小学生の頃、私の学校は、祭りに参加する学校行事があったのだが、
私は参加することを許されなかった。
他の神を祭る、という理由で。
お祭りの日、私の兄弟は、みんなでベランダから花火を見ていた。
休日は、学校の友達と遊ぶことも許されなかった。
宗教の集会に参加することを第一にすべき、という方針だったから。
私は、友達との約束を断ってばかりいたし、あれこれと普通と違っていのだから、
いじめられる要素が強かった。
元々、田舎町で、ただでさえ近所づきあいが悪いと村八分になるようなところで育ったのもある。
顔色を伺うことばかりだった。
私は他の子と違う、異端なんだ、みんなより百倍いい子にしないと、嫌われる。
いつも自己主張することなく、誰かについてまわっていたように思う。
そうしていれば、いじめに遭うことだけは、回避されたから。
中学に入って部活に入部したあとも、休日の練習は認められなかった。
熱心な部活だったため、私はそれが原因で、
「なぜあの子は、休みの日に部活に来ないの?」と煙たがられ、
しまいにはいじめられて、辞めてしまった。
「**してはいけない」
というのが大変多く、そして何より神を第一にしろ、という教えが根底にあった。
「**してはいけない」
というのが大変多く、そして何より神を第一にしろ、という教えが根底にあった。
私は中2のとき、一度だけ。
中学生になって、一度だけ、宗教の集会に出るのをさぼって、友達と遊んだ。
帰ってきたら、母は怒っていて、父には、「おまえは俺の子じゃない」と背を向けられたまま言われた。
その時の衝撃は、大きかった。
私は、それまで両親に従順で、ちゃんと言いつけを守ってきたのに。
一度破っただけで、もうお父さんの子供じゃないんだ・・・
とても悲しかったことを覚えている。
また、交際相手や結婚相手も同じ宗教の人であるべきだとされていた。
私の両親が、常識的に考えておかしな部分の多かった私達の交際をあっさり認めてしまったのは、そこにある。
非常に狭い見解の中に私はいたのだ。
そして、私が、まく吉と出会う頃には、
それは「当然」となり、むしろ誇るべきことのようになっていた。
「人生とは、車で旅をする人のようなものです。
真の信仰とは、ハンドルを神様に委ねること。
あなたは、助手席に座っているべきであって、
運転手になってはいけません」
そのような説教があったと思うが、それが正しいと心の底から思っていた。
一般的な常識よりも、宗教の常識が、私の中には植えられていた。
そして、それが絶対だったこと、全ての行動に制限と指示を与えていたことが、
洗脳という言葉につながった。
この話は、過去の私への挑戦、とも言える。
なぜなら、昔の私が最も愛したものを、否定し、洗脳と、(悪い意味で)呼んでいるから。
そうした側面で、過去のことを振り返ると、ある一貫した事実が垣間見える。
ひとつに、私と彼は、「神の前で結婚を誓い」、付き合い始めた。
神との誓いは、絶対に破ってはいけないもの、
裏切ってはいけないものと教え込まれていた私にとって、
それは命よりも大切と思われるような、強い効力を持った「契約」だった。
私は、その誓いに縛られていた。その誓いを守ることは、何よりも大切にすべきこと。
付き合うことで、男女の概念が生まれた後、
度々、その「契約」をまく吉は提示してきた。
「私達が付き合うことは、神に従うこと」
「別れるということは、神に背くこと」
それが全ての判断の根源にあったと言っていい。
まく吉は、私が高校の頃から、お告げのようなものを度々利用した。
それは様々な場面で行われていたのだけれど、その一つを話したいと思う。
私の目標は海外の専門学校に行くことだったため、私は高校3年生の1年間、
交換留学制度を使って、渡米しようと思っていた。
試験自体は受かったのだが、候補者は3人、結果抽選をして、私は当選しなかった。
失望して、そのことをまく吉に話すと、まく吉はこう言う。
「実は、試験を受ける前から、
私には、夕子がアメリカに行けないことは、分かっていたんだよ。
神のお告げがあったからね。
神様が、すべてが分かるまでは、言ってはいけないと仰っていたから、今まで言わなかったけど。
夕子は、私のところに来るべきだって。
私、まく吉の近くで英語を学びなさい、と仰っている。
あなたたちは、神が結んだ者たちだから、
離れてはいけないって仰せになっているよ」
このように、度々、
「神があなたたちを引き離してはならない、と仰せられる」
「誓いを守れ」
その言葉を繰り返し、聞かせたのだった。
また、短大時代に別れ話が出た時に、
「わたし(神)との誓いを破ってよいのか、破滅の道を歩むことになるがよいか」と言われた私は、
そこで自分の別れたいという意志を諦めてしまう。
神という存在は、私にとっては絶対だったから。
そのような形で、進学、結婚、将来の夢など、全ての決定に、
宗教の教えである、
「〜することが、神のため」
「〜しなければ、神に背く」
このような第一事項が念頭にあった。
今現在の私は、当時自分が書いた、「神様のことを綴った何らか」を読むと、
吐き気がして胸が痛くなる。
当時の自分が気持ち悪すぎて、受け付けないというか・・・
どんな感じかというと、全て何かをする時に、
「これは神様に喜ばれることか?」
ということがあった。
「これは神様が望んでいるか?」
なので、
「神様もそう言ってる?」と、まく吉に聞くようになっていた。
まく吉「-―するよ」
「神様もそう言ってる?」
まく吉「-―だよ」
「神様がそう言ってるなら、そうする」
こんな感じで。
すべての決断に、神の許可というものを求めていた・・・といえばいいのかな。
私はまく吉にも依存していたけれど、
最も依存していた相手は、神という名前をしていた。
ここで、実家に引き取られてから、数ヵ月後の日記を載せます。
(この頃、カウンセラーに指示されて、日記をつけるようになっていた)
これは今の私が読むと、すごく気持ち悪いです、「神様」連呼の自分が怖いです。
また、それとは別に、
病んでしまった私と、両親の折り合いや、
親の葛藤も伝わるのではないか、と思います。
6月**日(日)
午後、父が(宗教の)集会から帰ってきて、こう言った。
「おまえの友達に会ったぞ。
(頭を指差して)ココが今ちょっとおかしいから来れないんだって伝えといた」
ひどい。
「具合悪いのは(胸を指して)心だよ」と言い返した。
「それじゃあ肺が悪いと思われるんじゃないか」・・・本当にどうしたものやら。
その後、私の顔写真を見て、「うわっ幽霊みたいだな。こわ〜」と言った。
本人はおどけているつもりか知らないけれど、こっちは本当に傷つく。
「ひどすぎる!」と言い返した。
母はそんな私たちを見て、
「ほんと、こうゆうふざけ合ってるのを見ると楽しいわ」と言った。
・・・本当に心が痛んでるんですけど。言い返せただけましかもしれない。
父は確かに良いところもたくさんあるが、口が悪過ぎる。
また、私が加工した写真を見て褒めてくれたが、決して嬉しくはない。
評価主義はもううんざりだ。しかし、父は別に悪い人ではない。
ただ、それらの言葉は今の私には耐えがたい。
その後。
まく吉に泣きついて、今日の分の日記を読んでもらった。
「うつが治っても、家庭環境が同じだとまたうつが再発するから、これはちゃんと言ったほうがいい」と言われた。
「神様もそう言ってる?」と聞いたら、うんと答えたので両親のもとへ行った。
そうして、今日の分の日記を(・・・耐えがたい。まで)読んでもらうことにした。
父はそれを読んで、
「俺だって我慢しとるんや!くそったれ!もう夕子とは口をきかんでいいわ」
と言って二階に駆け上がって行った。
母は無言で私の背中をちょっとぶっきらぼうになでた。
その後、数分後父は戻ってきて、私に「ごめんね。俺が悪かった」と言ってくれた。
それから私がお風呂に入っている間、私の心の病について話しているみたいだった。
お風呂から出た後も苦しみが続いたので、横になってお祈りした。
少し落ち着いた。
夕飯の時、私は黙々とご飯を食べた。ずっと神様の名前を呼びつづけた。
そうして、ご飯を食べ終わった後、私は父のそばに行って言った、
「頭をなでてもいいよ」
そうしたら、頭をなでてくれた。
「よしよし。かわいい、かわいい、小さい頃はこうやってよくなでてやったなぁ」と言っていた。
安心した。
「頭をなでてもいいよ」と言えたことに、神様に感謝した。

中1から6年引きこもってた俺の末路wwwwwwwwwwwwwww
両親にちゃんと理解してもらうために旦那さまが弁解者になってくれたことも、感謝だった。
両親も、支える辛さがある中で、それでも私の気持ちを受け入れてくれたことに感謝した。
全て備えてくださった、神様に感謝する一日だった。
これを書いた後、再び父の元に行き、
「感謝してるんだよ。ありがとうね」と言って父の頭をなでた。
それから母にも抱きしめて、「感謝してるんだよ」と言った。
「分かってるよ」と言ってくれた。
今日はよく眠れるといいな。神様、ありがとう。
私の両親は、当然だけれど、心中して帰ってきた娘に対して明らかに困惑していた。
そこまで生活が荒廃していたというのは知らなかったのだから。
帰ってきた私はパニック発作を度々起こすし、幼児返りを起こすしで、
以前までいたはずの、「しっかり者」の娘は幻想に消えてしまった。
なぜ病んでしまったのか、相当頭を抱えただろう。
私の前では泣かなかったけれど、両親は、泣いていたと思う。
今日は宗教の側面から、当時のことを書きました
このことも含め、今後私がどのように親と関係を修復していくのか、
まく吉への依存心、
宗教の教え、
それらからの、解放と自立を今後書いていこうと思います
とりあえず今日書き溜めた分は以上ですー
一番胸が痛いところだから
今の私は両親に感謝しているし、出来れば批判的なことは書きたくありませんでした
それに、子供の頃に宗教やってるということで、いじめられた経験があるので、
人に話すのが怖かったのです
でも、ここを書かずには通れないかな、と思ったので書きました
「神様が殺せって言ってるよ」って言ったら、誰か殺してたの??
それはないですね
まく吉<<神様 っていうところがあって、
その神様の教え、という中には「人を殺してはいけない」などもあったので
それは、ありましたね
一応、自殺は罪、とははっきり教典にないのですが、黙認上で
だから、まく吉は死ぬ死ぬ言っても、結局死ななかったのかもしれません
ちなみに私は、心中を図った時の心境をこう綴っています、
(色々USBを漁っていたら、心中10日後に書いた文章が出てきたので)
(ああ、やっとだ。やっと、楽になれる)
私は死の恐怖よりも、楽になれることの喜び、
そして神様への罪責感よりも、
死ねることの喜びを思った。
です
私は茶碗蒸しを食べるのですよ
今、寒いので居間でこれを書いてるんですが、母がやたらこっちを見てきますw
最近PCに向かってばかりだから、心配してるのかも
男性経験は1人だけ?
>>478
夫婦生活は、全くなかったですね
まく吉薬の影響でry だったのです
ただ、私相当病んでたので、してないのに、
妊娠したんじゃないかって悩んで検査してましたw
実際、半年以上、ストレスで女の子のものが止まってたので
みなさまも、ゆっくり休んでくださいね
明日また来ます
おやすみなさい
神仏ってのは人の中にしか居ないもんなんだ。
神社仏閣にも、空の彼方にも、地の底にも、別次元にも、御神体の分子構造の隙間にも、どこにも居ないんだ。
幸せって何だ?
幸せってのは生きる事を満喫する事だ。
(生きるとは?ってとこから考え始めるとダメね)
神だろうが、何だろうが、人が何かしらの行動•思考に及ぶ際に、それを制限するものがあったとしたら、イコールそいつは不幸をもたらすもの以外の何ものでもなく。
神が人を苦しめだしたら、そいつはもう神とは呼べない。
最大の問題は、人は皆、意識(脳)を完全共有できないって点。
百人いたら、百の神と、百の幸せがあるって事。
ところで「神が○○言ってる」とかお告げだとかって、まく吉みたいな奴が吹き回ってて良いのか?
厳しい宗教だったら「そんな端くれが勝手に語るな」ってなると思うんだが…
兄は見事にグレました
私は兄がグレて親を困らせてる姿を見てきたので、グレることはできなかったですね
お告げ云々ですが、宗教の中でも「宗教法人」を名乗っていて、
割としっかりしたところでは咎められる行為かと思います
まく吉は、色んな宗派に入っては、抜けて・・・を繰り返して、
最終的には組織自体が小さいサークルに所属して、
自分がリーダーになっていったので、咎める人はいませんでした
本人曰く、とある宗派では、
「神に愛されたカリスマ王子」と呼ばれていたらしいですよ
カ・リ・ス・マ・王・子で朝飯吹いた
ちょっと気になったんだけどまく吉って夕子さんと全く同じ宗教ではないんだよね?
大元が一緒で別の宗派みたいな感じだと結婚は問題なかったの?
いちお夕子さんも同じ宗教でないとダメとしてるとは書いてはあるんだけど何故結婚が許されたのかな?と…
あとその宗教は結婚前の男女がふたりで会うこともダメと言われてなかったですか?初めてまく吉に会う時や会っている時抵抗なかったですか?
共依存地獄ですね
しかも宗教がその地獄を深めているように感じました
早く夕子さんが立ち上がる話読みたいです!
ゆっくりでいいので…
質問ありがとうございます
宗教に関しては、
C
宗派A<
D
大元<
E
宗派B<
F
のように分かれていました
細かく分類すると数十以上かもしれません
私の家がCに属していたとすると、当時まく吉が名乗っていたのはDで、
うちの両親的に、宗派が近いのでOKだったみたいです
私が高校生の頃は、男女交際のあり方について、良し悪しの話はあまりされてきませんでした
交際自体が、タブーのような雰囲気があったので、それ以前の問題でしたね
なので、もちろん抵抗感はありました
でも会うだけなら、割と似た宗派の別地域の人たちと集会があったりして、
会って仲良くなることは良いこと、という風潮があったので
まく吉も同じ宗教だから悪い人ではない、という概念の方が強かったですね
付き合った後は、交際はタブーだけど、結婚を前提にした交際ならば、
むしろ誇るべきこと、と思い込むようになりました
しかもまく吉口うまそうだし
男女交際についても納得いきました
私も親戚が夕子さん一家と同じ宗教をしていますが、大変ですよね
普通の幼少期や青春が送れないということはその宗教に浸かりきっていれば問題ないのかもしれませんが、そこと心の距離を置いて他の世界を見た時自分が得られていないものや無意識の内に失っていたものの多さに苦しむのではないかなぁと思います
その宗教自体を否定するつもりはありませんがせめて自分が分別がつくようになってから自分でいくつかの選択肢の中から選んでいけたらよかったですね…
そうだったんですね
親戚の方がどれくらい熱心かは分かりませんが、
あまりに行動規制が多いと心配になりますね
子供に関しては、やっぱり分別がついてから教えて選択させた方がいいと私も思います
理由の理解できない子供は、それで社会の摩擦に苦しむことで自分に自信のない子になったりします
私の宗教で育った子には多い傾向です
どの宗教も、どうしていろんな宗派にわかれちゃうの?
しかも宗派間で対立したり争ったりしたりしてるし
宗派のリーダーごとに、重んじるものが変わるため、分派するというがあります
それで自分のところが一番正しい、っていう身内びいきがあって対立があるんですね
>>宗派のリーダーごとに、重んじるものが変わるため、分派する
確かに一般的な団体とかグループならよくわかるんだけど
でもそれって、宗教団体としてどうなの?
分派すること自体が教えにそむくことにはならないの?
分派は、悪いとされていたと思います
なので、それぞれの分派が、「自分のところが正しく、他が分派」と名乗ったり、
あるいは、「あの宗派はもはや、神の意向に背いてしまった。原点に立ち返ろう、ここが真実」といったりでした
その宗教団体には、教典がまずありきで、その教典は真実というところがありました
ですが、その教典は、色々な解釈が出来るようなものだったので、
リーダーの解釈に基づいて、それぞれの組織が形成・運営されていましたね
そうですね、大元は絶対、ですね
今まく吉と離別した頃の話を書いていますので、
もうちょっと書き溜めたら載せ始めますね。
話は戻って、父とまく吉が激しい言い争いをした後。
私とまく吉は、父の判断で別居することになった。
私は当初、それこそ「ふざけんな、神様へ」に見られるようにまく吉に対し怒り、
もう離れたいと思っていたが、
それもまく吉がいなくなると、すぐに寂しくなってしまった。
すでに重度の依存症になっていた。
当時書いたものを載せます
別居して1日目
まく吉がいない。
どこを探しても、まく吉がいない。
神様、悲しいよ。悲しくて悲しくて仕方がないよ。
まく吉がいない。
さっきまく吉から留守電が入ってた。
「夕子の声が聞きたいので、電話ください」
私だって、声聞きたい。
私だって、電話したい。
でも、神様は、しないほうがいいって言う。
だから、私はそれに従う。
だいすきで、だいすきで。
でも、だめなの。
依存しちゃ、だめなの。
我慢・我慢・我慢。
2日目
留守電に何件もまく吉の伝言が入ってくる。
悲しげな声。
抱きしめてあげたい、今すぐ飛んでいって。
でも、できないんだ。
うぅ・・・神様のぼけなすー
さびしすぎる
もう、さびしくて、めっちゃさびしい
もう、、ばかー
誰に頼ればいいんだろ。。。
迷惑かけたくない私と
頼りまくりたい私と
混乱・迷走中!!
3日目
今日、黒の子猫が、家の近くにいたよ。
私が近づくと、逃げちゃうの。
4・5回繰り返して。
それでも逃げちゃうの。
「エサあげちゃだめだよ」って言われて
だけど、かわいそうで、かわいそうで。。。
ポップコーンを、少しだけ、置いておいたよ。。。
もう、なんか苦しいよ。
まく吉に会いたい。。。
まだ、2日しか経ってないのに。。。。
悲しくて、だけれど、頼ると依存になってしまいそうで;;
結局、私は、ひとりぼっちみたいで;;
もう、なんか嫌になっちゃった;;
私とまく吉は共依存の関係にあったため、
まく吉がいなくなった空白は、大きすぎるものだった。
胸にぽっかり穴があいてしまって、まく吉の代わりの依存先を探していたようにも思う。
私は、まく吉がいなくなって、寂しさを紛らわすためにネットにどっぷり漬かっていった。
主にチャットなどで誰かと話すことを好んだ。
だけれど、私は正真正銘の精神障害を患っていたため、
どうしても相手に依存しがちになり、
離れていく人も多かった。
そんな中で、私の依存を、受け入れてくれた人もいたのだけれど、
その後、私はその人を1年以上に渡り、振り回してしまうことになる。
また当時の私は、心療内科に連れられていく以外は、外に出ることはできなかった。
心療内科の待合室ですら、誰かに手を握ってもらっていないと、
パニック発作を起こしてしまうくらいだった。
当然、コンビニなどもだめだった。
人がいるところは、ダメ。人工の光が強いところも、ダメ。
なので、ネットをしていない時は、カメラを持って、
家の庭から見える景色や自然を写真に撮ることが、楽しみだった。
その頃、私は自然に対して感動していた。
引きこもっていたせいもあるのだろうけれど、
全てが新鮮で、綺麗で、ドキドキの連続だった。
狭い庭でも、こんなに色鮮やかな花が咲き乱れていて、草に濡れた露の玉が自然の美しさを魅せてくれる。
朝焼けや、晴れ渡るような空の青、青から赤へと変化していく夕焼けのグラデーション。
それらが、あまりにも心を打って、
世界はこんなに美しかったのだということに、改めて感動した。
また、以前まく吉と住んでいたところは、都会でコンクリートジャングル、
夜空も黄色がかって明るいような場所だったけれど、
実家から見た夜空はたくさんの星が瞬いて私の心を癒してくれた。
庭で綺麗な石ころを探したり、小さなお花を見つけたり、
そんなことが嬉しくてしょうがなかった。
本当にもう一度子供になったみたいだ、と思った。
貴重な体験談ありがとう。すごく参考になります。
神様崇拝はいいけど、恐れ多くも神様の名を借りて
自分の考えを押し付けるとか怖すぎる
そうですね、怖いなって思います
熱心なところは、特に、、ですね
子供口調の私の日記、最後の転載です
みんな聞いて聞いて!
今日ね、すごいことがあったんだよ
お庭に行ったらね
この前ポップコーンをあげた、黒い子猫がいたんだよ
すっごくかわいいから、私ついていったの
そしたらね、道路にぴゅーって飛び出しちゃったの
そこは、なんと学校の通学路!!
知ってる人に会うのが怖くて、ずっと避けてたレッドゾーン!!!
すごく怖かったけど、黒猫がおいでって言ってるみたいだったから、
思い切って通学路に出たよ
すごくドキドキしたよ
黒猫を探したけどもういなかったよ
昔よく通った道なのに、たくさんお花が咲いてるのを初めて知ったよ
林の中も探検したよ
そしたらね、大きな2本の木が支え合うように立っていたの
上を見上げると緑の葉が光を受けて、キラキラ、キラキラってしていたよ
風がながれるたびに
木の葉がさらさら、さらさらってささやくんだ
それがあんまり綺麗で、眩しくて、感動したよ
私、ずっと子どもの頃からここに住んでるのに、こんな木があるなんて知らなかったんだ
そのあと、怖かったけど、通学路をさらに進んでみたよ
田んぼがあってね、しゃがんで見たら、ちっちゃいよつばのお花がいっぱい浮いてたよ
私、田んぼ道はいつも通っていたはずなのに知らなかったんだ
大発見!!
指でそっとかき混ぜたら、くるくる、くるくるって黄緑のお花がまわるの
それがとっても可愛くて、うれしくなっちゃった
わくわくして
レッドゾーンをもっともっと、って進んだよ
そしたらね、新しくできたおうちに大きなわんちゃんがいたの
最初わんって吠えられてびっくりしたんだけど
大丈夫、こわくないよってにっこり笑って、じーっと見つめたの
そしたらね、鼻の先っぽを柵からつきだして、甘えてきたよ
なでていいよってゆってくれたの
私すごく嬉しくて、ぎゅーってしたよ
いいこだね
私もきみのこと大好きだよって
いっぱいなでたよ
わんちゃんは、うれしそうにいっぱいしっぽをふってくれたよ
夕子のことすきだよって
ゆってるみたいだった
長い間いっしょにいたよ
もっといたかったけど、あんまり遅くなるとお母さんが心配するから
またくるからねって
バイバイって手を振ったよ
そしたら、寂しそうにワンって吠えて、見送ってくれたよ
またきてねって言ってくれたの
お外に出るのはすごくすごく怖かったけど、
外はキラキラしてて、すごく綺麗だった
また来るからね
最初の3ヶ月は、庭より先に出られなかったのだけれど、
この時、行動範囲が庭から、通学路まで広がった。
こうやって、ちょっとずつパニック発作を起こさずに、
外を歩けるようになったことに、感激していた。
私が広場恐怖症を克服する、最初の一歩だった。
この頃、子供返りをしていた私は、ここでひとつ大胆な行動を起こす。
私の今後に、大きな糧となった出来事。
当時とある大手のSNSに登録していたのだけど、ネットを通じて、
宗教で仲良くなった幼なじみ、中学・高校の友達とそこで再び連絡を取るようになった。
そして、今思うと、よく友人達が受け入れてくれたな・・・と驚きもするのだけど、
支離滅裂な当時の日記を、
(それでも、当時の私が、これは読んでもらっても平気かな?と識別したものを)
そこに公開していったのだ。
自分のことを、リアルで仲良かった友達に話すのは、とても勇気がいることだった。
私は宗教のことでいじめられた過去があったため、
自分が宗教に入信していたことすら、知らせてない友達も多かった。
まく吉と付き合っていたことも、短大進学時に、ごくごくわずかに話しただけだった。
そんな友達に対して、心中だの、別居なんだの、と日記で書いていたのだから。
私の友達は、みんな優しくしてくれた。
ドン引きしても、全然おかしくないような、そんな内容だったのに。
「大変だったね」とか、「早く元気になってね」とかそんなコメントをしてくれた
私は、それがとても嬉しかった。
友達はみんな、「元気になったら、一緒に遊ぼうね」そう言ってくれた。
私は、家の外から出られなかったのと、女性恐怖症が再発してしまって、
それは到底無理な話だったが、
そう言ってくれる友達がいることに、本当に、本当に感謝した。
私、何も出来なくなっちゃったけど、病気だけど、
それでもみんな友達でいてくれるんだなって。
嬉しくて涙が出た。
もちろん、それで離れていった人もいたように思うけど、
ほとんどの親しかった友人は、私の日記を読んで、温かい言葉を贈ってくれた。
自分のことを人に理解してもらうために、周囲の友人に、自分の気持ちを話す。
それがずっと出来なかった私にとって、大きな、大きな一歩だった。
僕も宗教で虐められたことあります
だからほとんどの友達に言えません
読んでて親近感湧きました
一度、それでいじめられると言えなくなりますよね
そして、そのことで問題があっても相談もできず、
誰かにアドバイスをもらうことが出来なくなったり・・・
でも、大丈夫ですよ
真剣に話したら、ちゃんと受け入れてくれる人は、いると思います
母「あの子は、書いて、あの時ああだったな、とか覚えてるわけ」
父「そんなん、覚えんでいい」
どうも私がこれ書いてるの、見られたっぽいです
PCコタツに置いたまま、お風呂入ったりしたせいかな・・・
多分2chとか具体的には、分かってないと思うのですが、
気分的に、顔真っ赤です
今の両親との関係が一番気になってる
今は仲いいですよ、会話も普通にします
当時、私を一番支えてくれたのは、紛れもなく両親だった。
最初の方こそ、戸惑いも多くあっただろうけど、それでも根気よく私の世話をしてくれた。
一人で寝ることのできない私の隣で寝てくれたり、
パニック発作を起こすと背中をさすってくれたりした。
また、私が家族以外の人と会おうとしない姿を見て、犬を飼ってくれた。
私が近所の犬と仲良くなったことを、興奮して話したせいもあったのかもしれない。
生まれたての赤ちゃんを、ブリーダーさんの家まで見に行った。
6匹の子犬の中から、1匹、選んだ。
母は、どれも一緒みたいで分からないと言ったけど、
私にとってはその子が特別可愛く見えた。
名前は、私がつけることになった。
外に出られない私の代わりに、自由に、風のように生きてほしいという意味を込めて、
風太と名づけた。(実際は、風という意味の外国名)
家に帰って、風太のために小屋やエサ鉢、ぬいぐるみなどを買った。
ヒャダインのはじめてのともだち、という歌がある。
私はあの曲を、ずっと後に知ることになるのだけれど、
初めて聞いた時に泣いてしまった。
本当に、風太のことを思い出すような曲だったから。
はじめてのともだち
これは泣けるな
風太が家に来て、私は外によく出るようになった。
まだ小さくて、あまり遠くまで歩けない風太を抱っこして、
よく近所を散歩した。
知らないおばさんや子供に話しかけられることもあって、
緊張したけれど、風太が私の胸元で温かかったから、安心できた。
私はひざの中に風太を入れては、パソコンをしたり、
鬼ごっこをしたり、ぬいぐるみを投げては取って来いをさせたり。
お手やお座りも覚えさせた。
本当に、風太の存在が慰めになっていた。
まあ、子供返りした私にとっては、両親の関心が風太に大きく取られてしまって、
やきもちを妬いたりすることもあったのだけれど。
同じ頃、もうひとつの出会いがあった。
それは、ネットで知り合ったケイという子だった。
チャットで他にも知り合いは多かったけれど、特にその子は私に親身になってくれた。
私は「友達には怖くて会えないけど、ケイになら会えるかもしれない」と思った。
そうして、ある日私の両親から許可がおりて、その子は私の家に遊びに来た。
ケイには、精神が子供のままで止まってしまった兄弟がいたため、
子どものような私が相手でも、扱いには慣れているみたいだった。
親も含めて、色んなところに行った。
行ける部分は限られていたけれど、それでも少しずつ足を伸ばして行った。
初めてデパートに行ってもパニック発作を起こさなかった。
当時の記憶はなんだか、ぼんやりしているところが多いのだけれど、
とても良くしてくれたのだった。
行ける部分は限られていたけれど、それでも少しずつ足を伸ばして行った。
初めてデパートに行ってもパニック発作を起こさなかった。
当時の記憶はなんだか、ぼんやりしているところが多いのだけれど、
とても良くしてくれたのは覚えている。
また、ケイと一緒に、高校時代の友人に会うこともできた。
これが、実家に帰って初めての、周囲の友人と会う機会になった。
これをきっかけに、私は少しずつSNSで再会を果たした友達と会っていくことになる。
夏の終わり、私はこうして、対人恐怖症からの脱出の糸口を見つけた。
ケイには、もう会わなくなったけれど、今でも心から感謝している。
両親とは、少しずつ会話が増えていった。
最初の方こそ、病気の私に戸惑っていたものの、親身に話を聞くようになってくれた。
私は、幼少期からそれまでの間、自分が宗教を理由に遭ってきた嫌な記憶を話すようになった。
そうして、それを聞いて理解してもらうことで、徐々に信頼関係が回復していったように思う。
兄達は、遠巻きながらに私を見守ってくれた。
長兄は、私には直接言わないものの、陰でよく「夕子は大丈夫か」と心配してくれたようだし、
離れて住んでいた次兄には、よく子供のような内容の手紙を書いて、出すようになっていた。
後日、次兄が引越しをする際に、私が出した手紙が全部取ってあったと聞いて、
心がほっこりした。
当時の一日の生活は、ほとんどが睡眠に費やされた。
一日の内、18時間くらいは寝ていたのではないかと思う。
薬のせいもあるのだけれど、睡眠は病気の私にとって必要なことだったのだろう。
体力はほとんどなく、お風呂に入って髪を洗うだけでも、
ぐったりして何も出来なくなるだった。
また、私は熱ばかり出していたので、冷えピタを常用していた。
別居を開始してしばらく経ち、まく吉以外の人たちとの絆が深まると、
私のまく吉への執着は徐々に薄れていった。
まく吉のことは、私にとって、けしていい思い出ではなくなり、
今でも大切に思いたい気持ちと、もう縁を切りたい、と思う気持ちが混在するようになっていった。
それでも、私の信じていた宗教では、離婚はご法度だったため、
離婚はしない、いつか元気になったらまく吉と暮らす、と考えていた。
また再び、宗教の集会に参加もしたが、
離婚が暗黙上認められていなかったので、別居している私に、
「よくそんな状態で来られるよね」と言われたこともあった。
言われた直後は、私も薬でぼんやりしていたので特に強いショックはなかったのだけれど、
それはじわじわと私の中で痛みになっていった。
冬になる頃、私は一旦は離婚を願ったのだが、周囲の人は「まだ早い」と言った。
病気で私の判断力は著しく低下していたため、そのような大きな決断は、
もっと良くなってから、と言い聞かされていた。
実際私は感情のふり幅が激しくて、離婚したいと決意した数時間後には、
私はまく吉なしでは生きていけない、と思ったりした。
>>623
兄のことは好きですよ〜
おかげで寝不足だけど、良スレに出会えたから良い
結局その後、400万円のうち200万円はまく吉母が返してくれました。
まく吉母は、1千万円ほど持ってまく吉から離れたことが、
あとで通帳の写しが発見されたことにより分かったので、、
残りの200万は、まく吉に仕事が見つかった後、
父が月1万ずつ返してもらうよう催促してましたが、今はどうなってるか詳しく知りません
同時期、月に1回程度だが、色んな友達と再会していった。
みんな、温かく私との再会を迎えてくれた。
当時の私は、見た目も普通と違っていたのだと思うのだけれど、
それでも気にせず一緒に映画を見たり、服を選んでくれたりしてくれたのだ。
本当に良い友人に恵まれて、感謝している。
ケイは、特に私を支えてくれて、親友だよ、と言ってくれた。
遠方に住んでいるため、実際に会ったのは数回だけれど、
ネット上で私の負の部分を、根気よく引き受けてくれた。
今思うと、こっちの都合でいつも構ってと呼び出していたし、心底申し訳なかったと思う。
その年の冬休みにも、ケイは私の実家に来て、
私を遊びに連れて行ってくれた。
ちなみに、ケイにはよく、「夕子は悲劇のヒロインぶってる」とからかわれた。
私は不安障害という病状があって、将来のことをネガティブに想像しては、
妄想のようなそれを話していたから。
当時、ケイが言ってくれた言葉がチャットログに残っていたので、少しだけ載せてみる。
K:勝手になんか想像しないで
K:今だけ見て
K:ゆっくり病気治すといいよ^^
K:あせらなくても
K:ずっと離れないから
K:ね
ケイはとても優しく、私は慕っていた。
だけれど、同時にカウンセリングの中で、
自分がケイに依存しているという自覚も生まれていた。
カウンセラーは、
「それは共依存、まく吉の代わりにしてるだけ。
連絡を絶たないと、いつまで経っても回復しない」
と言った。
先生には再三そう言われたけれど、なかなか実行には移せなかった。
「連絡を絶とう」、と何度も伝えては、結局出来なくて連絡をする始末。
本当に振り回してしまった。
カウンセラーのことを、「なんでそんな冷たいこと言うの?」と恨めしく思ったこともある。
「ケイがいてくれるから、私は孤独じゃないのに・・・」、と。
カウンセリングをボイコットすることもあった。
だけど私にとっては、カウンセラーもずっと診てくれていた恩人だったので、
ないがしろにすることも出来なかった。
そして、彼の話が正しいこともなんとなくは分かっていたのだけれど、
いざそうなると、私は「いやだ、誰かそばにいないと、耐えられない」と拒否していた。
本当に依存症というのは、中毒のようなもので、
そこから抜け出すのは、かなりの月日が必要だった。
そうこうして、心中から1年が経ち、友人と遊ぶことも出来るようになった私に、
両親は、働くことを勧めてきた。
携帯もほしかったら、自分で稼いで買えとのことだった。
そこで初めてハローワークに行き、母と一緒に仕事を探した。
私は本当に体力がなかったため、そこで選んだ仕事は、
1日5時間、週に1度だけのバイトだった。
仕事内容は、単純な棚卸し作業だった。
だけれど、友達に会った日は神経が興奮して眠れない、
翌日疲れて熱を出してしまうような私にとって、
その簡単な作業が、苦痛で仕方なかった。
5時間、立ったりしゃがんだりするその仕事が、
私にとってはかなりの肉体労働だったのだ。
翌日は泥のように眠り、発熱し、次の仕事まで1週間かけて体調を整える。
そんな毎日だった。
それでも負けたくなかった。何に、と言われたら自分に、だろうか。
両親の期待にも答えたかったのもあるが、私自身が、
早く普通の社会人になりたいと焦っていた。
働き始めて、数ヶ月、さらに私は職場の人間関係でも悩むようになっていた。
そこの職場は、ほとんどがおばさん達だったのだけれど、
私が既婚なのに別居中ということを知ると、詳しい話を聞きたがった。
自分の家族の自慢や、噂話、それらを話す中で、私の身の上話も聞きたがる。
私は、出来る限り会話するのを避けていたが、だんだん嫌気がさしていった。
そうして初夏の頃、私の家に、次兄が問題を起こして帰ってくる。
兄は、警察にお世話になるようなことも色々やらかしていたのだけれど、
その時は失踪という形を取って、実家にやってきた。
私は次兄が好きだったので喜んだけれど、問題を抱えての帰郷だったため、
家の中に不協和音が広がっていた。
兄宛にかかってくる怖い電話が鳴るたびに、私は怯えて、
だけどここで私が弱ってしまったら、兄が家に居づらくなると思って我慢した。
でも私には、昔のような忍耐力はなくなっていた。
すぐに限界がきて、それらが積み重なって爆発し、
結局、自分が家を出て行くことに決めた。
だが、家を出るところを捕まえられて、初めて救急車に乗せられた。
普段とは違う精神病院に連れられて、医者に怒られてしまった。
ちなみに、それ以前にも私は家出試みたことがあったから、親が危惧したのだと思う。
次兄はそんな私の様子を見て、自分がここにいたら病気が悪くなると感じたのだろう、
実家を離れて帰っていった。私のせいで申し訳なかったな、と思う。
そんなわけで、次兄がいなくなった後、私はそれまで耐えていた仕事も辞めてしまった。
なかなか思うように回復しない自分の心身に、うんざりしていた。
また、その頃、まく吉と完全に連絡を絶ってから1年が経過していた。
1年経ってもまだ、私の中には義理人情というか依存心というか、
まく吉を慕う思いが残留していた。
だけれど、同時に憎しみも深く芽生えるようになってきていて、困惑していた。
あんなに愛した相手のはずなのに、まく吉が憎い。
いつかまく吉の元に戻って、一緒に生活を立て直すつもりだったのに、
それに対して拒否反応が起きる。
まく吉と出会わなかったら、私はこんな辛い目に遭わなかったのに、
そんな意識が頭をもたげてきたのだ。
一度こっそり市役所に行って、離婚届を取ってきたこともあった。
親に訴えたものの、医者の判断で却下されてしまった。
私はその頃、焦燥感でいっぱいだった。
なにもかもが、中途半端で、一向に前進している気がしない。
「慌てないでいいよ」という親や周りの言葉はありがたかったが、
同時に、「やっぱり仕事ダメだったか・・・」と落胆した父の姿も目の端に映った。
友達が雲の上のような存在に見えた。
みんな仕事をきちんとこなして、旅行に行ったり遊びに行ったり、素敵な恋愛をしたり。
お金に惜しみなく食べたいものを食べて、車を運転し、ショッピングを楽しむ。
親に週1度の仕事を送迎してもらって、なんとか行き、
それすらも辞めてしまった私には、みんながうらやましかった。
早く大人になりたい子供のように、早く健常な社会人になりたかった。
だけど精神も体も、思うようには動かない。
ゆっくりとしか、治っていかない。
焦っては、転んで、立ち上がっての繰り返しだった。
辞めてから1ヵ月、私はまたハローワークに通っていた。
体を動かす労働は合わないと感じていたため、次に探したのは事務職だった。
パソコンは引きこもってしょっちゅう使っていたから、
性に合っているかも、と思ったのだ。
その中で、ワード・エクセル使用できる方、という募集の一文が目を引いた。
スーツを着て面接に行く。
年配の男性と、厳しそうな見た目の年配の女性の二人が面接官だった。
女性の方が一言、「パソコンは使えますか?」と尋ねた。
私は「使えます」と答えた。
翌日、私の元に採用通知が来た。
こうして私は、週5の半日事務に就いた。
今まで週1でも、なんとかやっていたため、やっていけるか不安はあったが、
今度こそ絶対に続けようと、固く決意していた。
仕事の初日、面接官だった女性が私の上司として、挨拶をしてくれた。
厳しい面持ちだったが、柔らかな口調で、私はほっと胸をなでおろした。
事務職はその人と私の二人だけだった。
主にパソコンの入力作業をお願いされたのだけれど、電話や受付、
職員の細かな手伝いなども業務に含まれていた。
私は初めての事務仕事に、処方薬を12錠以上服用した状態で臨んでいて、
正直いって、ほとんど仕事にならなかった。
毎日、本当にささいなことを間違え、当たり前のことが出来なくて悔しかった。
常識的な範囲の問題でも、私は理解できず、失敗してばかりだった。
周囲の職員も、徐々に私が普通とは、違うことに気づいていった。
それでも優しく接してくれる人も多かったが、明らかに私を避けて毛嫌いする人もいた。
私自身、もし当時の自分が職場にいたら、優しくできるか自信がない。
それほど、私は仕事の出来るような状態ではなく、周りを困惑させることが多く、
白い目で見られ、蔑まれることが多かった。
そんな中、上司は丁寧に教えてくれたし、
呆れながらも顔には出さずに、根気よく面倒をみてくれた。
ミスばかりの私を、いつもフォローをしてくれて、それが私の支えになっていた。
上司はとても気配りのできる人で、その姿が、亡き祖母の姿を思い起こさせた。
自分の祖母のように思うと、この上司のためにも頑張りたいと願うようになった。
毎日、熱を出したり、体調を崩したりしながらも、親に送られて仕事場に行った。
私は、一度休んでしまったら、続けられないかもしれない、という不安感が強かったので、
どんなに高熱を出してもとにかく仕事に行って、自分の席に就いた。
精神状態も悪くなりがちで、意識は常に白濁としていたし、
仕事中に、周囲の目に耐えられなくなって、現実逃避でトイレに閉じこもることもあった。
だが雇ってもらっている以上は頑張ろう、クビになったらそれまで、
と割り切って毎日出勤していた。
村上春樹の1Q84に少し被る
依存て人の感覚を麻痺させるんだね
続きwktk
そうして数ヶ月が経過して、私は自分にも自信がついてきた。
初めて給与をもらった時、1ヶ月やり遂げた喜びがこみ上げてきたのを覚えている。
相変わらず毎日体調も崩すし、まだまだ仕事にならない日々だったが、
それでも週5で働けるようにまで回復したことが、とても嬉しかった。
また世間への視野が少しずつ広がっていった。
その中で、私自身がずっと抱えてきた問題、まく吉との今後について、
改めて見直すようになっていた。
私は自分がまく吉と共依存だったこと、
彼のいう神の言葉というのは、
彼が私を縛り付けるための自己中心的な発言であることを、
認識するようになっていた。
また同じ頃、ケイとの関係がだんだん重く感じるようになっていた。
ケイは私に好意を持ってくれていたけれど、私はそれに応えることができなかった。
何度も連絡を絶つと言っては、また連絡をして、そんな依存関係にも疲れてしまった。
ケイ自身も、私に対して呆れてきているのを感じるようになっていた。
そうして、ある日、ケイに「今度こそ本当に、連絡を絶つよ」と伝えた。
今まで何度も言ってきた言葉だったけど、今回ばかりは本気だった。
1週間、2週間と連絡を取らない日々を延ばしていった。
また、私は両親と医者に、離婚したいまでを改めて伝えた。
その頃には、宗教とは一定の距離を置いていたし、
離婚することに罪悪感はあったものの、それ以上に、新しい一歩を踏み出したかった。
私はまく吉に、離婚届と一緒に手紙を送付した。
別居から1年半、一度も顔を合わせなかった彼への、最後の手紙。
「あなたは、私を神のお告げで縛ったけれど、私はもうそこから解かれたいです。
私はもう、あなたと人生を共にすることはできません。
私を解放して、自由にしてください。」
そんな内容だったと思う。
彼からの返答は、「絶対に離婚しない」だった。
ここから、離婚調停のための準備が始まることになる。
私は両親に連れられて、久しぶりにパニック発作を起こしかけながら、
初めて、弁護事務所の門をくぐった。
弁護士は、相手が了解しない以上は、離婚調停をするしかないと言った。
私は、裁判でまく吉に会うのを恐れた。
まく吉と顔を合わせることを思うと、強い恐怖感に襲われてしまう。
弁護士は、顔を合わせない調停の仕方を説明してくれたけれど、
それでもまく吉の住む地元の裁判所に赴かなければならないとのことだった。
私にとって、その場所は忌まわしい土地で、
まく吉と裁判所ですれ違ったら、と思うと、
心臓がバクバクと高鳴った。
この頃の私ははっきり理解していたのだけれど、
私のパニック発作の主因は、まく吉だった。
元々出来ない仕事が、離婚調停の準備で、更に手がつかなくなってしまった。
私があんまり調子が悪そうだからか、
上司が「なにかあったら話してね」と優しく言ってくれた。
その優しい言葉に、私は端的に、
離婚の準備を進めていることやまく吉とは悲惨な結婚生活だったことを話した。
上司は、「辛かったね、それは離婚したほうがいいね」と言ってくれた。
きっととても驚いただろう。
だけど、ちゃんと聞いてくれたのは、まさしく上司の人柄の良さ故で、
私は本当に周りの人に恵まれたと思う。
また私は自分の気持ちを話すことによって、上司への信頼を更に厚くしていった。
そうして離婚調停が始まる直前のことだった、まく吉から手紙が送られてきた。
そこには、喉から手が出るほどほしかった、離婚届が一緒に添付されていた。
まく吉は、
「離婚はしたくないけど、法廷で夕子と争いたくはない。
あなたを解放します」
と書いていた。
私はその緑の紙を見て、ほっと胸をなでおろしたような、ちょっとだけ切ないような、
複雑な気持ちになって、涙を流した。
「これで全てが終わるんだな」という思いと、
「こんな紙切れ一枚に、私は長い間縛られていたんだな」という思い。
それまでの過去のことが、走馬灯のように頭の中を流れた。
こうして、結婚して3年、知り合って7年の、まく吉との関係に終止符を打った。
楽しいはずの20代前半をまく吉に振り回されたと思うと腹立だしい。
そうですね、私も離婚は両成敗だと思ってますよ
なんだかんだ、共依存で傷つけ合ってたと思います
人生は一度ペシャンコになりましたが、
そのおかげで得るものもあったし、今は二度目の人生と思って生きています
にしても、長いこの話を読んでいただいて感謝です!
だいたい23歳くらいですね!
16才で知り合い、20才で結婚、23才で離婚という感じです
離婚した後、私はしばらくうつ病が重くなってしまって、情緒不安定だった。
ありきたりかもしれないけれど、心機一転で髪の毛を切り、
久しぶりのおかっぱ頭にした。
家族も友人も優しくしてくれた。
職場の女性に、さりげなく髪をなでられて、ふと涙がこぼれそうにもなった。
私は、その頃、色々な依存関係を絶ち切っていたので、自立しか選択肢がなかった。
パソコンも、気づけば開くこともなくなり、埃をかぶっていた。
仕事に励み、病院に通い、友達と遊び、時にふと寂しさを感じていた。
私は、自分がバツイチになったことが非常に大きなコンプレックスになり、
こんな私に、いつか平凡な幸せが掴めるのだろうかと、不安が常につきまとった。
鏡を見ると、疲れた顔をした自分がいる。
はつらつとした、昔の私はもういない。
もう若くはない、と自分を卑下した。
将来への漠然とした恐怖がのしかかっていた。
それと闘うのは、大変な労力がいった。
もはや私は誰かに属しているのではなく、
自分の足で立って、人生を決めていかなければならない。
そのプレッシャーに押しつぶされながら、
私はなんとか日々をやり繰りしていたように思う。
月日は経ち、ようやく独身生活にも慣れた頃。
友人主催の飲み会で、私は冗談半分に、
「誰かいい人いたら紹介してほしいな」と言った。
そうしたら、「うん、夕子元気になってきたし、今ちょうどいい人いるよ!」
との返事が返ってきた。
こうして私は新しい出会いをすることになる。
新しい出会いに関しては、内容を掘り下げて書こうと思いますが、
身バレしたら怒られるかな
なんて思いつつ、今日はおやすみなさい!
いつも読んでくださる方、応援レスつけてくださる方に、感謝して。
頑張れ夕子
宗教はそれが分かりやすいだけであって、
何ものにも影響されず自分の存在だけで個を保つことは出来ないよ
出来てるなら、それこそ神様ですw
(まぁそう思い込んだ人が宗教を興すんだろうけど)
そういうとこ突かれると、人間ってすぐ壊れる
というか洗脳されるかもね
そうですね、何かに依存して生きるのが人間かもしれません
特に偏ったものに傾倒しやすい人は、洗脳されやすいのかな、と思います
影響を色んなものから受けている、見識の広い人は一箇所突かれても壊れにくいのかなって
長らく間を空けて申し訳ありませんでした
風邪をこじらせてしまい先週末は寝込んでいましたが、
今日ようやく熱が下がりました
心配してくださったみなさま、どうもありがとうございました
再開したいと思います
おかえりー!
無理すんな
友達の同級生だという、男の子を紹介してもらった。
初めの印象は、背が高くて、ちょっと落ち着きなくて。
笑顔が優しいかんじの男の子だった。
ぐいぐい引っ張ってくタイプじゃないから、
ショッピングモールの中をどのお店に入ることもなく、
ぐるぐる歩き回った。
映画を見ることにした。
結婚や闘病を題材にした映画だった。
離婚の傷が癒えてない私にはキツイタイトルだった。
だけど、彼は私がバツイチだと知らなかったようなので、 何もいわずに見た。
会った当日に言う勇気もなく、なんだかひどく冷めた気分で。
夜になって紹介してくれた子が合流して、
一緒に夕飯を食べて、おしゃべりして。
彼の車で送ってもらった。
デートなんて、久しぶりで、すごく緊張したのを覚えている。
ただ、バツイチだと知らない彼に、どうやっていつ、
それを伝えようかということだけが頭に残った。
2回目のデートは、バツイチだということを告白しようと決意して行った。
最初はカフェに行って、 パフェを食べた。
話の中で、短大を出てから、地元に戻るまでの生活に興味をもたれた。
私は短大を出てすぐ、結婚をしていた・・・
そのときの痛手で私はその後2年間、うつ病と対人恐怖症になったのだけれど。
会ってすぐ、目の前のパフェを食べながら笑顔で切り出せるほど、
私は勇気が無かった。
そのあと、カラオケに行った。
ほんとは男性ボーカルの曲が好きだけど、女の子らしい歌を歌った。
写真を撮ろうっていわれて、少し体が近づいて。
ドキドキした。
夕飯は、バツイチを告白しようと思って、居酒屋に行った。
だけど時間があまって、夕方5時に行ったから、
外は青空。酔えなくて。
結局言えないまま店を出た。
「話したいことがあるから、公園に寄ってくれない?」
覚悟は決めていた。
ぽつぽつと話し始める私に、彼は本気で驚いていた。
まだ、22、23歳。
私も彼も、周りにバツイチの子なんていない。
まして、子供も出来てないのにバツイチなんて。
若すぎる結婚と離婚だった。
彼は、話してくれてありがとうと言った。
驚いたけど、ちゃんと話してくれて嬉しかったって言ってくれた。
帰りの車、沈黙がつづいて、私は嫌われたかな、って不安でいっぱいになっていて。
車を降りる直前、彼は、ぎゅっと抱きしめて、「大丈夫だよ」って言ってくれた。
好き かもしれない
そんな感情が芽生えたのは、きっとこの時。
3回目のデートは、少し遠出をして遊園地に行った。
行きの車で2時間、何を話そうかと前日たくさん悩んだけれど、
実際は会話が弾んでそんなに気にならなかった。
最初、ショッピングモールを回って。
私が可愛いと言った小さなヘアピンを彼が買ってくれた。
彼は、デートはずいぶん久しぶりだと言っていて。
私もかなり緊張していて。
観覧車に乗ったときは、隣同士になって、
ドキドキして。
そのあと、ナイトショーが始まるまで時間が余って。
一緒に夕日が落ちるのを見ながら岬の先まで歩いたけど。
手をつなぐこともなく。
このまま友達なのかなぁ、って思いながら。
久しぶりに長い間夕焼けを見ていた気がする。
まるで線香花火が落ちるみたいな、その大きな日の玉に。
ゲド戦記の主題歌を思い出していた。
夕闇迫る 雲の上 いつも一羽で鳴いていた
鷹はいつも さみしかろう
音も途絶えた 風の中・・・
波の音。砂浜。夕暮れの海。
上京していた頃、前の旦那と見た海が重なって。
なんだか胸がちくちくして。
なのに、口から出てくるのは、相手を笑わせるネタばかりで。
心がちぐはぐなまま、遊園地に戻った。
ナイトショーでは、大きな音と、突然人を脅かす仕掛けに、
びっくりして腕をつかんじゃって。
このままずっと時間が止まればいいのに、って思ったりして。
終わって、手、離さなきゃ、って思った時。
腕から外れた手を、彼がするっとキャッチして、私の手を握ってくれた。
初めての手つなぎ。
車に戻るまで、ほんの数分だったけど、嬉しかった。
「なんか、夢みたいな一日だったよ〜」って、何度も言った気がする。
この後、寝る前に何度も何度も、このデートのことを反芻して夢に落ちていったことを覚えている。
久しぶりのデートはなんだか甘酸っぱいのと、胸がしめつけられるのとで、
私は不思議な感覚に陥っていた。
彼の仕草とか、隣で笑っている姿に胸が高鳴って、
でも同時に、私が相手でいいのかな、なんて思ってしまったりして。
私がちゃんと普通に恋愛ができる、という自信がいま一歩持てなかった。
そんな中、5回目のデートで、私は彼に告白された。
場所は、夜景が見える山の麓。
「好きです、付き合ってください」
ありふれた台詞なのに、とても新鮮な気がした。
恋愛に臆病になっていた私には、彼があまりにも眩しすぎた。
照れたような笑顔に惹かれるように、「よろしくお願いします」そう答えていた。
私は幸せな気持ちでいっぱいになった。
彼氏彼女、その響きになんだかくすぐったくなったりして。
だが、同じくらい、不安でいっぱいになってしまった。
私はまだ自分の宗教に未練があったため、一般的な男性と付き合うことに抵抗があった。
私の両親がどんな顔をするだろうか、という心配も頭をよぎった。
母とはその頃、自分の悩みを言える関係になっていたため、
私は紹介してもらった男友達と付き合うことになったことを悩んだ末に伝えた。
母は心配していたが、とりあえず見守ってくれることになった。
昔だったら、自分の交際関係を親に伝えるなど考えられなかったのだが、
話して親に認められることは、私にとって大きな後ろ盾になった。
付き合って最初の1ヶ月、私はまだ素の自分を半分も出せずにいた。
宗教のことや病気のことは話してはあったけど、今一ピンときていないようだった。
その上、とにかく私は体力がなかった。
それまで仕事行くだけでも精一杯な中で、デートを週2,3回したら、
私の体力は限界を超えて常に体調不良になってしまっていた。
私は良い子でいたい意識が強すぎて、自分の体調が悪くても誘いを断れないし、
意見も上手に言えなかった。
また固定観念が強くて、たとえば食事をする時に、
私にとって外食は量が多すぎて食べきれないのだけれど、
残すことはいけないこと・失礼なこと、その感覚から無理していつも平らげていた。
そんな日々が祟ったのか、付き合って1ヵ月半が経つ頃、
私は風邪を悪化させて倒れてしまった。
10日ほどの点滴生活で、何も食べられない毎日が続いた。
彼は心配してくれたけれど、私は自分の体が人よりも弱いことを改めて感じて辛くなった。
幸いだったのは、その間も仕事にだけは行けたことだろうか。
また、一番の悩みの種は、今後恋愛してゆく中で性的な関係を持つことになる可能性だった。
子供が出来たらどうするのか?
結婚前に関係を持ってもいいのか?
そもそも経験がなかったため、それらはとても難しい問題に見えた。
周りの友人達がカップルになったら当たり前にしていること。
それが私にはとても高い壁のように感じた。
そこをちゃんとしておかなければ、安易に付き合っていてはいけない、と思った。
彼とデートをした帰り道、
「これからも一緒にいられるといいね、だけど、もしいられなくなった時に悲しませたくないな」
そんな悲観的な言葉が出てくることもあった。
そうして、私は点滴生活から回復した後、彼に別れを切り出すことになる。
その日、「ちゃんと別れよう」と決心して、私は彼とのデートに臨んだ。
最初に話し合いが出来そうなお店に行き、周りにお客さんがいないのを確かめて、
私はこう質問した。
「もしも今後性的な関係を持つことで、子供ができた場合、どうしたらいいと思う?」
これは、別れる前に、はっきり聞いておきたいと思ったことだった。
聞くのは勇気がいったが、これから別れると思えば、なんとか言葉にすることができた。
彼は、
「うーん、分からないけど、もし今子供が出来ても育てていける環境と自信がないから、
やっぱりおろすしかないかもしれないね」
彼は誤魔化すわけでもなく、正直に思っていることを言ってくれた。
その実直さはとても素晴らしいことだと思うのだけれど、
私自身は、おろすという行為は受け入れられなかった。
「私は、子供をおろすことなんて考えられない、出来た命を簡単になかったことには出来ない。でも確かに今の私達じゃ、子育ては無理だね」
そう答えた。
店を出た後、家の近くに車を停めて「話したいことがある」と伝えた。
私は、自分がその時感じていたことを全て伝えた。
性的な関係を持つのは今の私達には難しいことや、だけれどそれでは彼氏にとっては酷かもしれないこと。
そのほかにも付き合ってみての思いを伝えた。
彼は、「別れたくない」と言った。
そして、
「夕子のいうこともよく分かる。
自分達で子供を育てられる自信が持てないうちは、性的な関係を持たないようにしよう。
俺は夕子が好きだから、我慢できるよ」
そう言ってくれた。
私は初めて自分の譲れない意見をきちんと伝えて、真摯に受け止めてもらえて、
とても嬉しかった。
私も彼本人に関しては、とても優しくて正直で良い人だと思っていたので、
これからも付き合っていけるんだと思ったら、嬉しかった。
今思うと、この別れ話をした後、
私達の本当の交際はスタートしたと言っても過言ではない。
荷が軽くなって、前よりも彼に甘えるようになった。
私は純粋に幸せを感じるようになっていた。
彼は大変だったと思う。
それでも大事にしてくれたし、私はますます彼を好きになっていた。
付き合って3ヶ月が経つ頃だろうか。
彼がお酒に酔って、失言をした。
それは私の現在を、否定するような蔑ろにするような言葉だった。
私は、本当はそんな風に思っていたのかと感じて、泣いた。
とても深く傷ついてしまった。
初めて本気で怒ったし、悲しくて泣いた。
自分の意見を伝えるのは相変わらず苦手で、無理をすることも多かった私だけれど、
この時を境に、私は自分の感情を表していけるようになったと思う。
ちなみに彼は私の前ではあまりお酒を飲まなくなった。
そんな風に恋愛の難しさを感じながらも、私は確実に幸福感を手に入れていった。
恋人であることの喜びや、関係が円滑になっていくのを感じていた。
隣を見れば、彼がいる。
一緒にいろんなところへ行き、笑い合ったり、いろんな感動を共有したり。
泣いたり怒ったり、そんな当たり前のことが普通に出来ることが嬉しかった。
彼との仲もようやく落ち着きを見せ始めた頃、一つの電話が私を脅かした。
まく吉からの、着信。
それは、ある冬の日のことだった。
私の携帯に知らない番号から電話がかかってきていた。
ディスプレイには着信拒否をしている相手だと通知されているが、
着信自体は履歴にしっかり残っている。
そして、留守電メッセージも入っているようだった。
私は恐怖に身を震わせた。
着信拒否をしても、履歴とメッセージが残ることを初めて知った。
もしかして緊急の用かもしれない、死んだのかも・・・
そう思ったら、放置することもできなかった。
結局、母に留守電メッセージを代わりに聞いてもらうと、
大したことのない世間話的な内容だったらしい。
私は安心すると同時に怖くなった。
パソコンメールなど、連絡手段は全て封鎖したつもりだったのに、
携帯は着信拒否していても電話は繋がるのだと分かったから。
私にとってはもう忘れかけていた存在だったのが、嫌な記憶を呼び覚まされてしまった。
毎晩、悪夢にうなされるようになり、寝つきも悪くなった。
その後も、2・3回の着信があり、私は携帯自体を変えることにした。
「これで本当に終わった」
ほっとしたのも束の間、今度はアマゾン経由で宗教の本が送られてきた。
私はそれをアマゾンに送り返したが、内心びくびくしていた。
まだこんなにもまく吉に対して恐怖心を持っていることを思い知らされて、愕然とした。
更に、私が登録しているSNSまで発見され、メールが届いた。
そこには、自分と夕子が調停を持ってして別れたのは間違いだったこと、
夕子がいなくなって友人も徐々に離れていったこと、自分は夕子を一生愛しているが、
夕子が自分や神を裏切っても、許してあげるということが長々と書き連ねられていた。
私はあまりにもその文面が気持ち悪くて、身の毛がよだった。
大きなショックを受けるとともに、冷静に考えることもできるようになっていた。
「この人は私と離婚して、友人のユミさん達に依存したのだろう。
だけど、その依存先にも呆れられてしまったのだろう。
だからまた、私に執着しようとしているのだ。
私を愛しているのではなく、ただ依存先がなくなって矛先を私に向けているだけ。
神の名を語って私をまた縛りつけようとしているだけ」
そう思った。
つまりつらつらと書かれている中の、「夕子がいなくなって、友人が去っていったこと」
これがメールを出した本心だということを理解した。
かなりの動揺を覚えたが、両親や彼氏、友達にカウンセラーに相談して、
この後SNSを退会してからは、まく吉からの連絡はない。
まく吉は寂しい人間だね、相手を追い詰めてでも自分が可愛い。
20以上離れた女性に未練タラタラだし、情けなさすぎる。
小学生のとき、宗教やってる子がいた。いつもいじめられてひとりでいて可哀想だった。
一年の時はなぜかかわいそうで、私が仲間になってあげなくちゃと思ってよく遊んだ。すごい上から目線だな。
しばらくすると、その子の親から私の親に電話がかかってきた。その後私は親からなぜかすごく怒られ、「もうあの子とあそばないで。なにがあってもだめ」言われた。
後で知ったけどその電話は勧誘されたらしい。
子供の友情も宗教の前には勧誘の材料なんだね。
勧誘の多い宗教では、子供をだしに勧誘するという手法も多いようですね
私の通っていたところでは、勧誘には熱心ではありませんでしたが、
神社仏閣のお祭りなどのイベントに参加させてもらえなかったりとありましたね
宗教に対する思いは、心中をしてからの数年間で少しずつ変わっていった。
心中した直後は、私は神様に「生かしてくれてありがとう」と感謝した。
そこから、現実と宗教やまく吉との狭間に立つようになって憤りも覚えた。
「宗教がなければ、私の家族はこんなにも歪まなかったのではないか、
まく吉に人生を振り回されることもなかったのではないか」と。
宗教を通じて知り合った友人達はみな、本当に良い子ばかりで、
病気になった私を率先して温かく迎え入れてくれた。
今でも親しい大切な友達ばかりだ。
だけど友人ではない人たちに、別居や離婚に関して白い目を向けられたことも事実だった。
私の知っている宗教とは、世間一般以上に狭い常識の道があって、
そこから外れた者はもはや立っていることが出来ない、弾かれるのだということだった。
そこの中心に立っていた両親が、今は脇に立っている。
父は子供の不祥事に役員を辞め、母は集会に顔を出すことがなくなった。
それがあってこそ、私は一般の男性と交際できるようになったのだし、
宗教の教えによって自分の人生を決めることなく、選択肢も広がった。
私は彼と付き合うようになってから、日本古来の場所へと行きたがった。
京都の清水寺や伊勢神宮などに赴き、初めておみくじも引いた。
ちなみにおみくじは3箇所で引いて全て凶が出て、
彼氏に「やっぱり違う宗教信じてるからじゃない?」とからかわれた。
私はただくじ運がないだけだと思うけど。
子供の頃に近くにあったけれど知らなかった世界を見たかったのだ。
触れて見て自分で感じてみたかった。
そうして、自分の意志で判断していきたいと思った。
今は宗教に戻りたいとは思わない。
ただ神様はどこかにいるのかな、と思っている。
もし将来、子供が生まれても宗教に通わせたいとは思わない。
自分で見て感じて、選んでいってほしい。
その中で神様を信じることになっても信じなくても、どちらでもいい、
心が健康で健やかな子に育てばと願っている。
仕事は今も続けている。
最近久しぶりに熱を出して仕事に行って、フラフラしながら仕事をした。
そのときに、何度か足元がおぼつかなくて物につまずいたりしたのだけど、
それが懐かしく感じた。
以前の私は、体の機能がやりたい動作に追いつかなくて、よく怪我をしたものだった。
いつも青あざばかりを足にくっつけている私に、
「誰かにやられているわけじゃないよね?」と心配されたこともあった。
それほど生傷が絶えず、冬になると寒くてだるまのように着込んでいた私も、
最近では暖房が暑いと感じ、手足の感覚が鋭くなってきたように思う。
ようやく仕事も慣れ、まだ時に突拍子もないことをして周囲を驚かせてはいるけれど、
女性職員との折り合いもよくなって、今では月に一度は食事に行くような間柄になった。
特に酷い状態を受け持ってくれた上司には、心から感謝している。
一番多い時で15錠ほど飲んでいただろうか。
それが、月日を重ねる度に減っていった。
2錠減らしては、1錠増やすというような、歩みの遅い減らし方だったけど。
本当は一気に減らしたかったし、時に薬に頼る自分が情けなくてみじめになったこともある。
だけど「今は治す時、薬を飲んでいるおかげで、仕事ができる。
自分の神経を守っている」と言い聞かせていた。
それがだんだん薬の存在を忘れても普通に生活できる日ができて、
睡眠薬を忘れても眠れる日が増えた。
硬かった蕾が一気に花開くように、ここ半年で私の病状は飛躍的に良くなったと思う。
今はほとんど安定剤を服用せず、睡眠薬を気持ち薬のように半錠飲むまでになった。
もうじきカウンセリングも終わる。
心中後、最初に出会ったカウンセラーが長年にわたり、私を診てくれていた。
色々と衝突もあったし、治療を一旦やめたこともあった。
だけど今ではカウンセラーが言いたかったことや、
教えてくれることがどうして私に必要なのかよく理解できる。
時に厳しく突き放したりしながら、
行動認知療法を続けてくれたカウンセラーには心から感謝している。
他の誰かが言えないことを、私のために言ってくれたと思う。
カウンセリングに費やした時間はゆうに200時間を越える。
彼氏とは紆余曲折あったが、今も平穏で幸せな時間を共有している。
私自身の依存癖によって出来た、直していかなければならない歪みは残っているものの、
それらを毎日正しながら、成長し合える関係を築けるようになった。
嬉しかったメールをひとつだけこっそり紹介しようと思う。
普段口下手で長文メールなんて送らない彼から、
病気の自分に自信をなくして落ち込んでばかりいる私に送られた、1通のメール。
「いつも自分に自信をもってっていってるけど、
ただ病気や性格を直してほしいからじゃなくて、
夕子の持っているものを知ってほしいからいってるんだよ
俺は夕子のことかわいいって思うし、病気だってもう治ってきてるし、
体力だってついてきてるし、何も気負うことない
特に病気なんかは不幸があって一時期辛かっただろうけど、
それを乗り越えて今の状態まできたんだから
それは誇れることだよ
仕事だって先月は一日仕事頑張ってできたでしょ
夕子はもっと自分が強い人間ってことを自覚してほしい
夕子は自分の弱点ばっか考えちゃうけど誰だって弱いところはあるし、
俺なんか欠点の塊だよ
性格なんてものはなかなか直らないから、すぐには無理だろうけど
俺は夕子のことを強い子だと思ってるから」
一年前、いつも自分は弱い弱いと嘆く私に、強い子だと彼は言ってくれた。
これまでのことも理解して、それでも私のことを病人扱いするわけでもなく、
ちゃんと向き合ってくれる人なんだと思ったら、とても嬉しかった。
彼とはいずれ、結婚しようという話が出ている。
今度結婚する時は、本当の意味で、お互いを支え成長させるパートナーとして、
共に人生を歩んでいけたらと思う。
いや、結婚する前からすでに歩き始めている、かな。
結婚は節目であって、伴侶としての関係作りはすでに始まっているのだから。
家族とはちょうどよい距離感を保っている。
両親も老後の生活に入り始めたし、口うるさくもなったけれど、
誰よりも私のことを心配してくれている。
私が一番弱った時、最も助けてくれた人は、やはり両親だった。
全身麻痺になったり子供返りを起こしたりした私を、根気強く見守ってくれた。
子供の時には感じなかった愛情を並々と受けて、今の私は胸がいっぱいになっている。
これからは私が親孝行をしていきたいと思う。
病気になって初めて知ったものや得たものは、失ったものよりも多かったと、
そう思っている。
最後に。
今年亡くなった風太にも。
ありがとうを伝えたい。
亡くなる少し前、やたら私の膝に入りたがって甘えてきたのは、
きっと何かを予知していたのかな。
風太のぬくもりや、元気な笑顔が忘れられないよ。
私の代わりに、風のように自由に生きてほしいと願ったあの子はもういないけど。
今は私自身が、風のように自由に外を行き来して、笑って、毎日を生きているよ。
子供返りをして泣いてばかりだった私はもういない。
大人になった私は、泣くことをやめて、前を向いて歩く強さも手に入れたよ。
たくさんの元気をくれて、ありがとう。
悲しい時やこっそり泣いている時は、さりげなくひざの中に来て私を温めて。
「僕をなでてもいいよ」って言ってくれて、ありがとう。
風太がいなくなって寂しいけれど、泣いてばかりいたら心配かけちゃうから、
ちゃんと毎日自分の足で立って歩いていくよ。
風太のこと大好きだったよ。
また、いつか会おうね。
夕子
今日は書いている間にたくさんの方にお会いできて嬉しかったです
周りの人達の温かさに気が付いて、感謝できるなんて素晴らしいよ。
当たり前過ぎて気が付かない人もいるもんね。
夕子ちゃんの立てたこのスレ、初めから見守ってたけど、
毎回楽しみにしてたし、考えさせられる事が多かったよ。
素敵な時間をありがとう!
こちらこそ読んで頂いてありがとうございました
書き終えてレスを読んで、PCから顔をあげたら、
母が「なにをニコニコしてるの」といぶかしげな顔をしてました
ずっと見守っていただきありがとうございました!
あとがき。
自分の過去を振り返って書こうと思ったのは、VIP+のみなさんの体験記などを読んで、
私も書いてみたくなったのが最初のきっかけでした。
約10年分の話ですので、書き始めたらかなりの量になるのは予想され、
書ききれるか不安はありましたが、始めるなら最後までやり遂げたいと思って臨みました。
最初にまく吉のことを書こうと思って過去の日記などを漁っていて、
驚愕したことがありました。
あれだけ私の人生に深く関わっていた人なのに、
その人をどんな愛称で呼んでいたかをすっかり忘れていたのです。
ああ、こんな愛称でまく吉のことを呼んでいたな、と。
変な感じでした。
連呼されているその名前が、まるで他人が書いたもののように思えました。
それほど、私は忘れていたのです。
名前も、顔も、口癖も、色々なことを。
辛かった頃のことを書き始めると、私は当時の気持ちに感情移入しすぎてしまって泣いてしまうことも多々ありました。
悔しいやら悲しいやらなんやらで。
今思うとあの頃の私は本当にバカだったのですが、当時は真剣そのものでした。
できるだけその頃の気持ちに沿って書いていったつもりです。
当時嫌っていた人たちの言い分も、今は理解しています。
私が自分の過去をここまで深く振り返り、記述することは、今後ないでしょう。
全て忘れ去ってしまう前に、どこかに残しておきたかった。
思い出をテキストとしてここに移しておくことができて、不思議な満足感に包まれています。
きっと未来の私が読み返したら、「バカなこと書いてるなぁ」って鼻で笑うのかもしれませんが。
それもまた、いいかなって思うんです。
文章が甘くて読みにくい所も多いのですが、
長らく温かい目で読んでくださったみなさまに、心から感謝しています。
VIP+は本当に優しくて、いつもレスを読みながら、
よし書ききるぞ!というやる気と、当時の私への慰めをいただきました。
みなさまと同じ時間を共有できて嬉しかったです。
本当にありがとうございました!
壮絶な人生があるもんだといろいろと考えさせられました
また、>>1が回復していることが嬉しく思えます
ご無事でなにより
夕子さんのこれからの人生が幸多いことを祈ってます。
うまく言えないけど、ありがとう!
お疲れ様でした。これからは彼氏と幸せになってくれよ!
人って這い上がれるんだなってことが伝わって来たよ。おつかれさま
幸せな人生を歩んでね
宗教は幸福を求めるものじゃない?
幸せに生きたい、幸せに死にたいって願いの塊。
もしくは、不幸になりたくない、かな。
毒にも薬にもなるんだろうなぁ。
壮絶だけど幸せになれてよかった
昨日、宗教の勧誘されたから
何となくこのスレが頭に浮かんで来てみた。
今年の災害のこととか、絆とか、そんなこと言ってたけど、
自分が被災者で心が弱っていたらと思うと正直ちょっと怖いなぁ。
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